昭和二十四年八月十三日 講話(11) 光録14

〔 質問者 〕熱心な一信者、ある会社の社長でしたが、昨年の金融停止のため経営困難に到り、やむなくその会社を解散し別の事業をいくつか計画いたしましたが、それが九分九厘まで行くと壊れるのでこれも神様の思し召しに添わぬものと諦め、ただ一心に、光明如来様を念じ平静に窮乏生活いたしておりますが、かえってその友達が心配しある行者に見てもらいましたところ、祖父のとき家が破産しかけたのを某稲荷を信仰して救われ、以来ずっと祀っていたのに父の代から祀らないのでその祟りだからさっそく祀るようにと言われたそうですが、これは信じられましょうか。また、この障りを除くことはできましょうか。

【 明主様 】 これは少し変だな。事業がうまくゆかないから平静に窮乏生活をしているって言うけど、そんなことじゃいけませんね。これではうまくゆきっこありませんよ、大いに努力しなけりゃ。そして、たとえ稲荷が祟っていても、この道によって人を救えば稲荷なんか手もつけられませんよ。どんな稲荷でもね、観音様にちょっとひねられりゃ屁でもない。(笑声) けど、その人にそれだけの資格がなければ駄目ですよ。

 人間の罪の中で一番大きいのは怠けの罪で、これくらい大きいのはないんです。なぜって、頭だとか手だとかを神様から与えられているんだから、これを役立てないってのは間違ってる。できるだけ使うべきですよ。そんな行者なんかこっちから見れば小僧にも当たらないんですよ。そんなのにかかり合ってるのは、この人がせっかく信仰の門に入ってるのに未だマゴマゴしてるからです。もっと徹底しなけりゃ駄目ですよ。かえって反対にその行者を救ってやるくらいでなけりゃ。……自分が行者に救われるっていうんでは、まったく小僧以下ですよ。(笑声)

「『御光話録』十四号、岡田茂吉全集講話篇第二巻p~」 昭和24年08月13日