〔 質問者 〕教導所の発展しない理由をお伺い申し上げます。
【 明主様 】どっか脱線してるからですよ。要するに軌道が外れてるんです。一番の原因は、なにが多いですね、あの小乗的信仰の場合が。こういうのは発展しないですよ。どうしても大乗でなくちゃいけないですね。発展ってのは大きくなる活動ですからね、大乗がどうしてもいいんですよ。小乗のは窮屈でね、あれはいけない、これはいけないといろいろ咎めるのはいけないんです。それでは観音行じゃないですよ。観音様ってのは大乗であり、善悪無差別ですからね。それに対して、人間が善悪を決めるのは間違っているんです。まあ、ある程度は常識で善悪の判ることもありますが、徹底して判ることはないんですよ。これは悪い悪いと言いながら、その人自身悪いことがよくありますからね。ちょっと思ったことを簡単に言うくらいならいいですがね、どこまでも自分の思った通りを人にさせようとするのは決してよくありません。なんでも、こう、気持ちのいいようにせねばいけない。まあ、根本的原因は一口に言うと、教導所に来て気持ちがいい、愉快だ、というふうにさせてないからですね。
それから、あの「くどい」のはいけません。一事を繰り返し繰り返し言う人がありますが、あれはごくいけませんよ。神様ってのはあっさりしたもんですよ。いろんな宗教でもしつっこいのがありますがね、そんなのは本当は邪教ですよ。一言話して先方が言うことを聞かなかったら時期を待つようにするんです。
それから、御浄霊で病気が治るから、御利益があるから人が来るんです。そして病気の治るってのは急所にふれるから治るんです。だから教導師は急所をつかまなくちゃ駄目ですよ。話でもそうで、急所を外れてただベラベラしゃべったって駄目ですよ。一言でも二言でも先方の魂に触れることをポンと言うと、それで相手は感じるんですよ。 ……そんなふうに、話でも浄霊でも急所ですよ。その急所を衝くのは智慧、叡智ですね。こっちがボンクラだと判らないんですよ。終いには、全体をやればどこか当たるだろうってわけでね。(笑声) まるで機関銃式ですよ。(笑声)百発百中じゃなくて、百発一中ですね。(笑声) そうかと言って、最初からそういうわけにはゆきませんからね。一生懸命やって、しかも広くやってれば、だんだん急所が判ってくるようになりますよ。
まあ、いろんなことがありますがね。気のついたことを言ってみたんですが、一番肝心なことがたった一つあるんです。それはね、どうしても発展しよう、大きくなろうって強く思うことですね。それが根本です。俺は駄目だ、なんて思うことが一番悪い。俺も人間だ、人がやれるなら俺にだってできるっていう気構えでね、失敗しても、笑われても諦めないで、どうしてもやり遂げるっていう、そういう人が発展しますね。私自身がそうなんですよ。それを、一度転んだらもうしようとしないなんていうんじゃ駄目です。「諦めが肝心」と言いますがね、物によってはそうですが、物によっては「諦めないが肝心」ですよ。だから、悪いことは「諦めが肝心」、いいことは「諦めないが肝心」ですよ。私に人を紹介するとき、よく紹介者が「いや、この人は立派な人物ですよ、第一欲がないから」なんて言いますが、これはおかしいんです。私は欲のないのはいかんてよく言うんですよ。欲にもいい欲がありますからね。欲張りって言えば神様が一番欲張りですよ、全世界を救おうっていうんですからね、これほどの欲望はありませんよ。だから、欲だって決して悪くありませんよ。
よく「観音教には金がある、金儲けがうまい」なんて言いますがね、いま、多くの人を救うにはどうしても金が必要ですよ。いくらすばらしい力があり、教えがよくても、機関がなくては駄目だし、地上天国を築くのにも天国の模型がいりますしね、……いま、私はその模型を作っているんですがね。なにをやるにしたって金が必要ですよ。そのために金を集めるんなら結構じゃないですか。大きな救いにはたくさんの金がいるんですよ……
昔みたいに「祖師は紙衣の五十年」なんて、あれは親鸞でしたかね。五十年はしなかったかもしれませんが、まあ、それくらい質素にしたってわけですね。日蓮だって乞食坊主みたいになって法を説いたんですが、今日は時代が違うんです。いまはそんなことをしても世の人が相手にしませんよ。草鞋ばきで行脚したり[駕]篭を使ったりした時代と、自動車や飛行機がある時代とは違うんです。昔のように草鞋ばきで歩きまわるんでは全世界を救うことはできませんよ。ところが、いままでの観念があって、質素倹約して乞食坊主みたいにしてなければありがたがらない人がありますがね、あれも困ったもんですよ。つまり、信仰の根本が違うんですよ。昔の信仰、いままでの信仰っていうのはね、禁欲的な、まずい物を食って、ボロボロの着物を着て、粗末な家に住んで、それがいいこととしていたんです。ところがあれは間違っているんですよ。いったい、きれいな花が咲き、いい景色があるっていうのは、神様がこれを無駄に作ったのではない、人間を楽しませるために作られたんです。おいしい物だってそうです。人間を楽しませるために作られたんです。それを、わざわざまずいものを食い、粗末な着物を着るってのは、神様のお気持ちに対する一つの叛逆ですよ。天国を作る、その天国ってのは、真、善、美の世界です。その美っていうのはいったいなんですか。きれいな家に住み、美しい着物を纏いおいしい物を食べるっていうのは美じゃないですか。なによりの証拠はね、邪神はとても花を嫌うんです。そこの床の間にも花が生けてあるでしょう。だから、必ず部屋には花を飾らねばいけないって、これは私が前から言ってることですがね。仏様に花を上げるっていうのもそれなんです。花は霊界に非常にいい影響を与えるんですよ。私の所ではどの場所でもたいてい花をおいてあり、花のない部屋はないくらいです。花についての論文も近いうち発表しますよ。
教導所の発展しない原因も、いま言ったようなことを考えてみれば判るでしょう。