〔 質問者 〕ある人、ある家のため一心に奉仕したことが結局、結果において悪いことになる場合がよくありますが……
やる人に智慧がないんですよ。一人の人を救う場合にもね、救う時期と機会があるんですよ。いくら救おうと思って一生懸命になってもね、時期と機会と先の気持ちがぴったりと合わなければいけないんです。ある人が間違っている場合、これを諌めて止めさせればいいんですよ、理屈ではね。ところが人間てものは執着があるんで、口で言ったり注意したりしてもなかなかやめるもんじゃないんですよ。だから私は、ほおっといてその人が失敗するのを待つんですよ。この人はここが間違ってて惜しいなあ、と思ってもそれを止めないでほおっとくんですよ。ずいぶん薄情のようですがね。しかしその人を本当に救うにはそれでなくちゃいけないんです。で、にっちもさっちも行かなくなり困りきってくれば救いを求めて来るでしょう。そこでね、あんたはこことここが間違ってるんだと言ってやれば、その人はもう懲りてますからね、腹の底から判って本当に改めるんです。中途半端で意見なんかするとね、かえって結果が逆になることが多いもんです。執着が強いですからね。特に男女関係においてこれがひどいんです。止めるとかえってのぼせちまってね。(笑声) だから男女関係の相談を持ちかけられるとね、私は「神様にお任せしときなさい」って言うんですよ。まあ、神様に責任を転嫁してしまうんですね。(笑声) 実際またそのほうが成績がいいですよ。ちょうどね、坂から石が転がり落ちるときにね、中途で止めようとしてもなかなか止まりませんしね、自分が怪我をするくらいのものですよ。さっきの「一生懸命やって結果が悪い」ってのはこれですね。だから、石が下まで落ちてしまうのを待つんですよ。そうしたらほおっといたって止まっちまいますよ。それでね、どの辺が坂の中途か下かを見抜くのが智慧証覚ですね。智慧を磨けってのはそれですよ。