〔 質問者 〕相手を信じすぎたためいくどか失敗した場合、次の相手を警戒するのは本当でないと存じますがいかがでしょうか。
警戒していいですよ。次の相手を大いに警戒していいですよ。ただ、警戒しすぎてはいけない。必要な程度、程々に警戒するんです。私なんかも大いに警戒しますよ。いろんな人がやって来ますからね。実にそれは巧妙な手段でやって来ますからね。新聞なんかに出たために、観音教には金があるっていうんで、あの金をなんとかしてたんまり出させようって目的でね、実に巧妙な手段をやりますよ。しかしまあ、そんなのはじきに判るからこっちがかえってからかい半分にあしらうんですがね、このごろはそんなこともつまらないからしませんけど、警戒はいいことですよ。騙されるとこっちは被害をこうむるし、さきは罪をきますしね、いいことはないんですからね。
〔 質問者 〕相手が人格的であるのにこちらが疑っても、別に罪にはならないでしょうか。
いや、罪っていうのはそんなもんじゃないんです。先方を苦しめるとか、先方に迷惑をかけて困らせるとかいうのが罪になるんです。だから「この野郎、早くくたばっちまえ!」と思ったってかまいませんよ。(笑声) 行動にさえ出さなければね。しかし、その心持ちが本当のものでなければ、行動も本当じゃないんですがね。大本のお筆先に、
「われよしわれよし」っていうのがありますが、やはり自分ばかりよくなればいいっていう気持ちはいけないんです。「今の人民むごい心になりたれば神は苦しむのであるぞよ。人よかれの精神にならねば神の御旨に適はぬぞよ」と言うんですがね、この通りでみんな健康になる、みんな幸福になるっていう気持ちを持ってれば間違った行動にはなりっこないんです。だからいつも自分を批判することですよ。自分にとらわれて、自分はいいことをしてるんだ、と思っていても、間違ったことをしている場合がよくあるんです。だから絶えず自分を批判することが肝腎ですね。それから、すべて物事は結果ですからね、結果が一番正直なんです。だれが見ても立派な人でもね、世の人や社会のためになることをさっぱりしない人がある。功績を表わさないんですね。忠義無類なんて言ってながら戦争に敗けてしまったんじゃしようがないでしょう。たとえ他から見て感心できないような人でも、どんどん成績を挙げる人が神様の思し召しにかなうんです。