昭和二十四年三月  直心会報03 「無碍光」(5)

〔 質問者 〕現在法隆寺は信仰の対象でなく、往時の日本文化の貴い資料として後世に保存する目的と存じますが、昼の文化建設の前には旧文化崩潰の線に神の御意図は厳正であるのでございましょうか。

 法隆寺は仏教芸術の根本で一三〇〇年前に聖徳太子が御建立以来仏教芸術がさかんになったのである。いま仏教の功罪を考えるに絵画、彫刻、音曲などの芸術の面においての仏教の貢献は偉大である。民衆的な歌曲もお経が根本で、それから謡曲が生まれ、長唄、常盤津が進歩した。浪曲も説教節から生まれてきて、絵画、彫刻の面でもその通りで、その意味からすれば、法隆寺の災上は実に痛惜に堪えぬことである。が、それには深い意味のあることで、だいたい神様の御経綸はだんだんと小さな型から大きいものに移って行くもので、人間でも肉体心魂霊子がある。その小さなものの変化をよく観ずれば、やがては世界の運命まで判るのである。だから法隆寺の災上も仏教芸術の将来を暗示しているというわけで、しかもぜんぜん消滅したわけでなく修復して新しく生まれ出ることは、その意味においても日本芸術のために一面哀しくもあり、また喜ばしいことともなる。なお昭和六年六月一五日自分は千葉県の乾坤山日本寺に詣でたことがあるが、そのお寺にはあらゆる仏様の像があり、また大きな菩提樹があり、その名からしても私は日本における仏界の型だと思った。その六月一五日、この日から昼の世界に変わったわけで、それには種々の神秘があったが、やがて発表する機もあろう。そのお寺がその後災上し、ついに今日に至るも旧態に復し得ないのも夜の世界の暗示と考えている。

「直心分会『会報』三月号、昭和二十四年三月三十日、19490330、岡田茂吉全集講話篇第三巻」 昭和24年03月30日