〔 質問者 〕「五六七の御代」には易学はどのようになりましょうか。
易学なんてものはねほとんどなくなりますよ。易というのは吉凶禍福を占うものですからね、易学も従っていらなくなるわけです。いままでは人間の霊が曇ってるから弱かったので、弱いから邪神や邪霊に負けたんですからね。これからは邪神、邪霊は力がなくなりますし、いっぽう人間の霊も浄くなって犯すことができないようになりますから、この両方のため禍いなんかはなくなってしまうのです。だからね、「五六七の御代」には迷信なんかはなくなるんです。迷信というものは人間の恐怖感から生まれるんですからね。で、この恐怖感というのは物事が思うようにゆかないから出てくるんですが、世間には理屈で判らないことがたくさんあるんです。現代最高とされている「科学」の言う通りやったって思うように行かぬことばかりですからね。中でも一番こわいのは病気でしょう。それから火事、地震等々、こんなことから恐怖感が出てきて、これに対する気休めのために迷信が生まれるんです。ところが「五六七の御代」になると病気、災難がなくなるから恐怖感もなくなり、従って迷信も生まれなくなりますよ。迷信なんて忘れてしまうでしょう。方位方角なんかもいらなくなりますね。……いまは科学の力で迷信をなくそうとしてますが、科学で片付けようとするからかえってなくならないんです。迷信の種類はずいぶんあるもんですが、調べてみるとドイツに一番多いんですからね。科学の一番発達している国が一番迷信が多いということになります。これでみても迷信をなくすのに科学がどんなに役立たないかが判りますよ。だいたい科学そのものにも迷信の分子が多分にありますからね。われわれが浄霊によって病気を治すのも一つの迷信打破ですよ。これを見せれば文句ないでしょうが、科学はこれを迷信というんです。だから「迷信と見なす迷信」もあるんです。一番きまりをつけるのにいいのは、治れば迷信でなく治らなければ迷信なんですよ。そしてこっちは治るんだから迷信ではないわけです。これは事実なんだからどうすることもできない。そうでしょう。……昨日だか『毎日新聞』の記者が来ましたがその人は運命論者でね、……あの『青い鳥』のメーテルリンクなんて運命論者の錚々たるもんですが……運命論というのは一種の諦めの方法で仏教の諦観と結局同じものですよ。私のほうには運命観なんてない、運命なんてどうにでもできるんだから。そこでその記者にいろいろ言ってやったら、あとで井上さんに「大先生にあっては歯が立たない」と言って帰ったそうですよ