昭和二十四年二月十八日 御講話(1) 光録04

〔 質問者 〕各地にお祀りしてある同一神仏の御分霊の御力には差がありましょうか。

 ええ、差がありますね。そこのところの人間しだいで差がつきます。同じ神でも例えばお宮が立派か粗末かによってもその御力が違ってきますし、拝む人が多い少ないでも違います。また、心から拝む人が多いほど神の威光は強くなるのです。お宮の作りも立派なほど神の格が高くなります。

〔 質問者 〕教導所などもやはり立派なほうがよろしいでしょうか。

勿論ですね、立派なほどいいです。

〔 質問者 〕御仏壇はいかがでしょうか。

 仏壇も同様ですが、しかしこれは「相応の理」によって、その家や身分と相応しなければいけないのです。大本教のお筆先に「今の人民神の住居を粗末にし、己が住居ばかり立派にして、神の家をないがしろにしているが……」とありますが、実際いまの人はそうですね。しかしこれはたいへんな間違いです。やはり家や身分に相応するのがいいんです。また反対に、チッポケな家に住んでいるくせに仏壇をあまり不相応に立派にしすぎるのもよくないことで、そんなことをするとなにかお知らせがあります。以前平塚のほうの人が、大光明如来をお祀りしたんですが、まもなく雨が漏って台無しにしてしまったことがありました。これはその家に不相応なので、祀れないようになってしまったのです。で、私は他の小さいのと変えてやったことがありました。それからもう一つおもしろいのは「鰯の頭も信心から」と言いますが、くだらない石ころでもなんでも一生懸命拝むとそこへ神仏ができるものです。拝む人間の想念でできるのです。そして人々が拝んでいる間は神仏の姿は出てますが、拝まなくなると間もなく消えてしまうのです。そういうのでもある程度の御利益があるので信仰する人もあるんです。その反対に想念によって悪魔もできるんです。例えば人を苦しめたりするとその人の怨みの想念が集まって悪魔を作ることがあり、その悪魔のために始終恐怖に襲われたりするんです。浜口内閣のときの大蔵大臣だった井上準之助という人は暗殺されたんですが、これは当時緊縮政策をやったので人々から怨まれたためやられたんです。人の怨みが集って悪霊となり、それが人間に憑き、その人間を操って復讐することもあります。そういうときはたいへんな病気になったりしますよ。いまは税務署長なんていうのはまったく危いですね。……もう一つの例があります。三越の専務は不思議なくらい幾人も死んでいるのです。というのはあれはデパートの元祖ですが、デパートができたために小売商人がそうとう没落しました。 その人々の怨みのためにヘンテコになるんですよ。三越の専務で日比大助という人があり、なかなか立派な人だったのですが、最後は精神病になって死んでしまいました。だから人から怨まれるのはいけないことで、これくらい損なことはないのです。英雄の末路が哀れなのもそのためです。明治天皇がおかくれになったのもそうで、支那やロシアと戦ったのでその人々の怨みがくるが、それが日本の中心の天皇に集まるのです。

「『御光話録』四号、岡田茂吉全集講話篇第二巻p50」 昭和24年02月18日