〔 質問者 〕人類にはいかなるわけで悪があり苦がありましょうか。お伺い申し上げます。
これは人類を造った神様でなくては、造られた人間では判り得べくもない。私も造られた人間であって造った方ではないからその真意は判らぬが、ただおよそその想像はできるわけで、無論なにかの必要があってそういうふうに造られたのと思う。
元来、主神は全宇宙そのものがその御所有物であって善も悪もないが、『神典』にあるごとくその主神から分かれて霊系の祖が高皇産霊神、体系の神が神皇産霊神となられた。
これは陰陽神であり、陽陰はすでに善悪である。そして悪に属する神を邪神、善に属する神を正神という。この善悪が常に摩擦し争闘しつつ人類は生成化育し、今日のごとく輝かしい文化の発達をみたのである。この点が人間としての考え方の難しい所で「悪人を造っておいて裁くなら初めから造られなければいいではないか。審判などといって人間を悪いことをするように造っておきながら、罪を罰することは無慈悲不合理だ」という人もあるが、私としても造られた側に立っているので神意を知り得べくもないが、なんのために悪を造られたかの想像はつく。それはたしかに悪によって善が活動し文化が進歩を遂げたという事実である。しかしながら人間として悪い事をすると悪い結果が必ず来る。
すなわち因果応報で、これは間違いのない事実であり、真理である。どんなにしても善でなくては栄えない。人を苦しめれば自分が苦しむ、人を幸福にすれば自分が幸福になる、そうすると善い事をしたほうが得だという結論になるから人間は善事を目標としなければならぬ。次に苦しみもなにかの必要があって造られたもので、現実の苦はいかにして抜除し得るかである。それは神から苦悩の元たる曇りを除いていただくほかはなく、神仏の光によって除いてもらうのである。観音教団の浄霊はそのためにできたもので、この浄霊により神の光が放射され曇りは解消し、苦悩はさっぱりと除かれるのである。
そしてこの曇りは信仰と徳との程度により、大きくも小さくも除れるのである。
邪念や言葉の罪などは、朝夕神仏を礼拝することによって大方は浄められるが、それのみでは本当でない。やはり人を幸福にすることが肝要で、信仰は拝むのみで本当に救われぬ。まず多くの人に喜びを与えなくてはならぬ。