〔 質問者 〕神は浄化を与えて御救いくださる反面、苦痛をも与えられるのは罪業の許しでしょうか、またはその刑罰でしょうか。
苦痛も浄化です。……ある人に信仰をすすめても入らず、この救いの綱に捉れと言ってもついて来ないのは、その人が綱までまだ距離があってすぐには来られないのです。そんな場合その人が自力で苦痛をなめると罪が少し消え従って距離が短くなって綱まで来れるのです。いくらいい教えを説いても手の届かない人が多いのです。これは時を待つほかない。苦痛はすべて浄化です。自力の浄化です。ところが御浄めの浄化は他力だから楽なんです。しかし他力でも罪により苦しみますがね。また死ぬ人もある。が、死ぬ人は多くの場合、心から神にすがることもない人だと見ていい。全生命をすてて神にすがればまア助かります。一度死んでも助かります。周囲の人々が忠告がましく医者にかかれとか言うと、信仰のない人はじきに迷ってしまうが、迷うとたん神とのつながりが切れてしまうんです。もっとも周囲が判らないとき徹底して言うと、警察問題にもなるからあまり強くも言えない場合がある。それはしかたがない。ずいぶん気の毒な人がありますよ。某はこの春疥癬をやった。これで死ぬ人はないのですが、私の所へ相談に来て、周囲がうるさいから医者にかかりたいと言うので、まアかかんなさいと言った。信仰のない人は周りの人の邪魔 〔 質問者 〕邪霊がたくさん来ますからね 〔 質問者 〕で、駄目になってしまう。この人も入院して死んでしまいました。ちょうどこの人と同じように疥癬をやった人も御浄めでいまはすっかり治っている。おもしろいのは死んだ方は教育がなく治った方は大学出なのです。
人が一度信仰に入ると神は御恵みをくださろうとするが汚れたものがある場合、それを浄めてくださる。それは幸せになる資格を与えてくださるのです。信仰に入ると必ずいきなり幸せになるとは言えない。まず汚れを取り除かねばならない。よく教導師になり専門に御浄めをし出すと疥癬にかかるのはこの理です。それは魂がまず浄められるから従って肉体も浄められるのです。……前の世で罪穢れをためて霊界へ行き、浄化が不充分でまた現界に出てくるとき、浄化の続きをせねばならない。善人であって不幸な人というのはだいたいこれです。