教祖が非常に好んだものに、浪曲(浪花節)がある。とくに明治末の浪花亭愛造を好み、その声はとても人間の喉から出るとは思われない絶妙なものであったと書いている。若いころ、自宅の風呂にはいってみずから唸り、家族の笑いを誘ったことはすでに述べた。戦後になっても浪曲好きは変わらず、仕事をしながらラジオから流れる浪曲に耳を傾けたこともよくあった。
昭和二六年(一九五一年)の夏のことである。その夜八時から放送の木村若衛という浪曲師による「名優・左団次」に、仕事をしながら耳を傾けていた教祖は、芸者との間の恋情を、芸のために絶つ役者の男心を切々と唄ったその内容に、何ごとか思い出すふうであった。浪曲に歌われた話のあらすじはこうである。 九代目・市川団十郎、五代目・尾上菊五郎とともに、明治の三名優と称された初代・市川左団次は、若いころ大根役者といわれ馬鹿にされていた。しかし、脚本作家の二世・河竹新七(後に古河黙阿弥と改名)は左団次に非凡なものを見出し、これを励まし、その精進を願っていた。ところが、左団次には、愛に溺れた芸者がいた。「そんなことではとても大成は覚束ない。」と考えた新七は、芸者にわけを話し、「三年の間、左団次から離れていてくれ。」と因果を含めた。そこで彼女はわざと左団次に冷たくあたり、愛想づかしをしたのである。しかし、これが左団次奮起のきっかけとなって、間もなく彼は「丸橋忠弥」で大当りをとったので、大根役者の汚名も消え、やがて、芸者との仲も前のようによりが戻ったというものであった。聞き終えたところで教祖は思い出話を始めた。
「今聞いていて思い出したんだが、私が四〇歳くらいの時、これとまったく同じような経験をした。相手は柳橋の芸者で年は一九だったが大変な美人で、そのうえ、じつに頭が良かった。あんな美人はまだ見たことがないくらいだから、私が彼女と会っていると、ついじっと見つめてしまうので、
『あんたに会うと目が痛くなる。』
ってよく言ったものだが、ともかく美人だった。そのうえ頭がいい。私は受け答えのいかんでその人の頭のよしあしを判断するが、この妓のはじつに的確だった。付き合いだして半年くらいしたころ、どんな小さな家でも、二階でもいいから一緒に暮したいと迫られた。彼女を身請けするにはたいした金もいらず、条件はすこぶるよかった。第一若い、絶世の美人、まあ普通だったら一も二もなかったろう。
その時は、私も大変悩んだ。すでに信仰にはいっていて、妻子あるものがほかの女性と関係をもつのは大変な罪であることを知らされていたから。妻子がなければよいが、妻子があったからね。悩んだ揚げ句、ついにその芸者ときっばり手を切る決心をした。その時私はもう二度と芸者遊びはしないことを誓い、彼女は芸者をやめると約束したが、どうも江戸っ子っていうのは約束を破っては男がすたるという妙な意地があって、私はそれっきり芸者遊びをやめたが、彼女も芸者をやめ、ある金持ちと結婚したと聞いた。それからしばらくの間、彼女のことが思い出されて仕方なかった。歌集『山と水』に載せた、
頭には霜いただけど燃ゆる火の想ひを包む吾にぞありける
に始まる『恋(仮想歌)』一〇首は、彼女のことを後に詠んだものだ。
しかし私は、その時自分を偉いと思った。自分で自分を押えることができたんだから。人間は自分で自分を押え、感情のままにならないところに価値がある。
まあ、あれは、神様の試験だったわけだ。」
三〇年前のそうした思い出を、教祖はなんの衒いもなく、側近者に物語ったのであった。
教祖の芸能観を知るうえで、興味深い話がある。昭和二八年(一九五三年)四月、関西巡教のため京都におもむき、春秋庵で昼食をとった時のことであるが、案内役の古美術商・飛来堂の主人・山岡鉎兵衛も同席していた。いつものようにラジオの放送が流れ、正午のニュースがあったあと、昼の演芸に移って、浪花節が始まった。これまた浪曲好きの山岡は、それが「天保水滸伝」の「平手酒造」であることがすぐわかって、何気なく、
「二代目・勝太郎ですね。」
と言った。語り手が聞き覚えのある二代目・玉川勝太郎だったからである。するとこれを耳にした教祖は、
「や、君、浪花節がわかるのですか。」
と聞いた。
「大好きです。一二、三歳のころから好きです。」
「誰が好きですか。」
「浪花亭愛造、初代の玉川勝太郎などとくに好きです。」
と言って、山岡は知っている限りの語り手の名をあげたので、ひとしきり教祖との浪花節談義に花が咲いた。その時、
「山岡さん、浪花節がそんなにわかるなら、美術も芸術もきっとよくわかるね。」
と教祖は言った。
冗談とも受け取れるこの言葉を聞いて、同席していた山崎重久は、よほどびっくりしたのであろう、
「これは驚いた、これは驚いた。」
と連発していたが、山岡はこの言葉の意味するところを一人静かに考え、やがてみずから解明した結論をつぎのように述べている。
「美術品の鑑賞も、音楽や演劇の鑑賞も、それがわかるというのは一種の感動を覚えることである。そしてこれは、人間誰しももっている霊感の働きであり、魂の浄まった上根(優れた心の素質)の人ほど、この感動は純粋であり強烈なものであろう。
大衆を信仰に導くことも、美術品に触れて美の心を感得させることも、結局一つことであると、教祖は早くから覚られていた。その覚りに立って美術品を蒐集し、美術館を建て、私たちを鞭撻された教祖を、私は本当にお偉い方と心からあがめている。
一を聞いて十を覚るとか、一芸に達した人はほかのあらゆる部門にも通じるとか言われるが、
教祖はそういう方であった。このように考えると、
『浪花節がわかれば、美術、芸術がわかる。』
と、さりげなく言われた教祖は、ふだんいかに美の深奥に触れつつ生活されておられたかが、よくわかるのである。」