信仰のあり方として、私は、つねにわれよしをすてて、利他愛の精神に立脚<りつきやく>せよと教えておりますが、これは信仰にかぎらず、人間幸福獲得<かくとく>の絶対的条件であります。御教えにも、幸福の鍵<かぎ>は他人<ひと>を幸福にするために努力することであると示されておりますが、世のなかのいっさいの不幸のもとは、このわれよしの心から発生<はつせい>しているといっても過言<かごん>ではないと思います。本教でとなえる地上天国とは、おのおのがもっているよいところをのばさせ、相互に尊重<そんちよう>しあい、利用しあい、調和しあって、つねに世界全体の平和、発展を第一義とするあり方になる世界をいうのでありまして、これを端的<たんてき>にいえば、人類相愛の精神になることであります。
ところが、いまの世のなかの大部分の考え方は、自分に属するもの、自分の主義にしたがうものに対しては、同志としてできるだけ親切をつくしますが、一歩自分と主義のちがうものに対しては、敵対意識<てきたいいしき>をもっております。これがそもそも、世の中をきびしくさせているいちばん大きな原因であります。明主さまは『信仰は信用なり』と仰せられましたが、根本において、どんな人をも敵とせず、その幸福を願っていく奥床<おくゆか>しい気持をもちつづけることによつて、いつかはその人を無形に化し、結局自分のところへ帰ってくるものだという物の道理を、自らの体験からわりだされて教えられたお言葉であります。その明主さまのご体験のひとつをここに紹介してみましょう。
明主さまが、はじめて光琳堂<こうりんどう>という小間物屋をひらかれたとき、ある縁つづきの苦労人から「商売は馬鹿正直だけではけっして成功しないから、三かく流(義理、人情、交際を欠く)でやれ」と教えられて、一時は成程と思われ、一生懸命うそをうまくつくようにつとめられましたが、どうしてもうまくいかず、結局、忠告を無視して、生来<せいらい>の正直流でおし通されることになりました。そんなあるとき、三越<みつこし>の小間物仕入部長さんが、通りすがりにたちよられ、「じつはこんど仕入部長になったが、小間物についてはサッパリ無知<むち>であるから、専問店やいろいろ参考意見などをきかせてほしい」といわれました。それで明主さまは『私自身もあまり経験はないが、知っているかぎりのことはお教えしましょう』ということで、某所<ぼうしよ>の某店<ぼうてん>は何が特色だ、何を主にあつかっている、図案がいい、こういうものはこの店で買いなさいと、懇切丁寧<こんせつていねい>に教えられました。仕入部長さんもたいへん参考になったといって、その場は礼を述べて帰られましたが、その後しばらくたってから、ふたたびたずねられ「先日はたいへんありがたかったが、きょうはひとつお願いがあってきました。というのは、あなたは商売人としてじつに珍らしい人だ。たいていの商売人なら、三越ときいただけで、なんとか自分の店と取引を成立させようと、手前味噌<てまえみそ>をならべるものだが、あなたは、自分の店のことは一言も口にせず、他店の特色をあげ、しかも親切に教えてくださった。これはまったく商人根性をはなれておられ、私はその立派な人格にうたれました。ぜひ取引していただきたい。」といわれました。明主さまも再三辞退されましたが、先方のたってのお願いで、ここに三越との取引がはじまり、小売店から卸問屋に転じられ、独特の創意工夫が時代の尖端をいくところから、一躍業界の人気を集め、成功者となられました。それから、のちには店を番頭<ばんとう>にゆずられて信仰生活に入られましたが、ともかくつねに人のためをはかるという利他的信念をつらぬいてこられました。
かように、ひとのよかれと願うところに、おのれの幸福はまちうけているものであります。信仰だっておなじで、われもよし、ひともよしという生き方をすれば、神さまはご信用くださり、いくらでもご神徳をさずけてくださいます。この場合よく自己を殺して仁をなすと申しますが、これはじっさいにはできないことで、自分を愛するごとく、ひとを愛するあり方がほんとうであります。そしてその行いが神から見届<みとど>けられ、愛され、信用されるにいたれば、あとは少々無理なお願いでもきいてくださるし、ご神徳のまえわたしもしてくださいます。たとえば浄霊の場合、私どもは信じなくてもなおると申しますが、あれは順序からいえばちがっております、ところが神さまは、取次者<とりつぎしや>の誠をご信用くださっているから、信じない者にもおかげをまえわたしされるのであります。したがって、信じなくてもなおしていただけるという変則的<へんそくてき>おかげに、いつまでもいい気になっているのはまちがいで、奇蹟をみせられればみせられるほど、私どもは謙虚<けんきよ>になって、ご用に没頭専念<ぼつとうせんねん>しなければならないと思います。