私はキリスト教について少しく話したい事がある。それはプロテスタントの無教会主義と、カトリックの教会主義との意見の相違である。無教会主義とは読んで字のごとく「教会を必要としない、聖書一本で進むべきである」というに対し、教会主義は「キリスト昇天後教会が先に出来、聖書は後から出版されたものであるから、教会は重要である」と言うのである。これについていずれが是か非か、私の見解を述べさしてもらいたいと思う。この問題に対しいずれにも理由があるが、私は霊的方面から解釈してみよう。
霊界においては、霊体一致の法則に従って、霊と物質の一致が原則である。すなわち霊がなんらかの目的を遂行せんとする場合、物質を利用しなければならない事がある。例えば神仏を招聘(しょうへい)し、その御霊徳を授与されたい場合、出来るだけ清浄なる土地へ、教会又は神社堂宇を建立し、祭壇又は御神体、仏像等を安置し、香華を手向け、御饌御酒を献供し恭しく礼拝祈願すべきで、それによって高貴なる神仏も降下又は鎮座ましますのである。そうして危急の場合は、いついかなる場所にいて祈願するとも、一瞬にして神仏の霊は身近に来り給い、御守護下されるのである。しかしながらプロテスタントのごとく物質を介せず、空間に向って祈る場合、その誠は神霊に通じ、ある程度の御加護のある事は間違いないが、相応の理によって、どうしてもその御加護は薄い訳になるのである。これについて霊と物質との関係をかいてみよう。
霊界においては神仏の霊は素より、人霊も、動物霊も、すべてなんらかの物質に、神懸り、又は憑依するものである。例えばキリストは十字架へ、諸神諸仏は文字、御鏡、絵画、彫像等へ懸り給い、人霊は多く文字へ憑依され、動物霊は人体又は文字、稲荷なら狐の形状したもの、御札等へ、龍神は文字又は蛇形のもの、石塊等である。右の場合高級の神霊仏霊は、その作者の人格に関係するので、昔から名僧智識や名人等の絵画彫刻は貴重な物とされた訳である。
こういう事もある。外国の霊が日本へ渡来する場合、霊のみにて空間を渡来する事は出来ない。それは霊の往来する範囲は階級によって限定されているからで、そこでやむなく物質に憑依する、すなわち共産主義の霊などは多くマルクスの著書に憑依して渡来し、その霊が各大学の講堂の壁面に並んでいるそうで、その姿を霊視した人から私は聞いた事がある。又中華民国の霊なども種々の品物に憑依して渡来するそうである。同様日本の霊も品物に憑依して海外へ渡航するのであるが、神仏の霊は高位になるほど往来する範囲が広く、地球全体に及ぼし給うのは最高貴の神仏である。
以上の理によって、彼の偶像説の誤りである事を知るであろう。