私は若い頃哲学が好きであった。そうして諸々の学説の中、最も心を引かれたのはかの有名なアメリカの哲学者ウィリアム・ジェイムズのプラグマチズムである。まず日本語に訳せば哲学行為主義とでもいうのであろう。それはジェイムズによれば、ただ哲学の理論を説くだけであっては一種の遊戯でしかない。よろしく哲学を行為に表わすべきで、それによって価値があるというのである。全く現実的で米国の哲学者らしいところが面白いと思う。私はこれに共鳴して、その当時哲学を私の仕事や日常生活の上にまで織込むべく努めたものであった。その為プラグマチズムの恩恵を受けた事は鮮少ではなかった。
私はその後宗教を信ずるに至って、この哲学行為主義をして宗教にまで及ぼさなくてはならないと思うようになった、すなわち宗教行為主義である。宗教をすべてに採入れる事によっていかに大なる恩恵を受けるかを想像する結果として、こういう事が考えられる。まず政治家であれば第一不正を行わない、利己のない真に民衆の為の政治を行うから民衆から信頼をうけ、政治の運営は滑らかに行く、実業家にあっては誠意をもって事業経営に当るから信用が厚く、愛をもって部下に接するから部下は忠実に仕事をする為堅実な発展を遂げる。教育家は確固たる信念をもって教育に当るから生徒から尊敬を受け、感化力が大きい。官吏や会社員は信仰心がある以上立派な成績が挙り、地位は向上する。芸術家はその作品に高い香りと霊感的力を発揮し、世人によき感化を与える。芸能家は信仰が中心にあるから品位あり、観客は高い情操を養い、良き感化を受ける、といっても固苦しい教科書的ではない、私のいうのは大いに笑わせ、大いに愉快にし、興味満点でなくてはならない。その他いかなる職業や境遇にある人といえども、宗教を行為に表わす事によってその人の運命を良くし、社会に貢献するところ大であるかは想像に難からない。ここで私は注意したい事がある。それは宗教行為主義を実行の場合、味噌の味噌臭きはいけないと同様に宗教信者の宗教臭きはひんしゅくに価する。特に熱心な信者にしてしかりである。世間よく信仰を鼻の先へブラ下げているような人がある。これを第三者から見る時一種の不快を感ずるものであるから、理想的にいえば、いささかの宗教臭さもなく普通人と少しも変らない、ただその言行が実に立派で、親切で、人に好感を与えるというようでなければならない。一口にいえばアク抜けのした信仰でありたい、泥臭い信仰ではいけない。世間ある種の信者などは熱心のあまり精神病者かと疑わるるほどの者さえあるが、この種の信者に限って極端に主観的で、家庭を暗くし、隣人の迷惑など一向意に介しないという訳で、世人からその宗教を疑わるる結果となるが、これ等は指導者に責任があり大いに注意すべきであると思う。