昭和九年(一九三四年)五月一日、教祖はそれまで住居にしていた大森の松風荘に妻・よ志と六人の子供を残し、麹町区平河町一丁目二番地四(現在の千代田区平河町一丁目四番地)に家を借り、応神堂と名付けて救世の活動を始めた。応神堂は二〇坪(六六平方メートル)そこそこの五間の二階建ての日本家屋で、教祖は玄関に〝岡田式神霊指圧療法・応神堂・本院″という看板を掲げ、二階を神業の場として使用した。近くに陸軍省(現在は国立劇場が建っている)をひかえ、四谷と皇居を結ぶ交通至便の地であったが、近くに清水谷公園などもあって、都心にありながら比較的落ち着きのある街並であった。とくに麹町は皇居に接し国会議事堂を擁する、文字通り日本国家の枢要の地であり、教祖が以前から進出を希望していたところであった。
教祖はこの応神堂で「岡田式神霊指圧療法」という名のもとに、信仰的指圧療法を開業した。神霊の研究を通じ、神界、幽界、現界の実相を極め、病気と健康に関する発見などによって、神霊による癒しこそ病なき世界を実現させることのできる核心的方法であるとの確信を得たからである。
教祖はこの浄霊の救いについて、
「私という者は、世界の終末に際し、全人類を救い、病貧争絶無の地上天国を造るべく最高神の御経綸の下に、主脳者としての大任を負わされたのであるから、神は私に対して絶大な救いの力を与え給うたのである。その力というのは病貧争絶無の中心である処の病の解決であって、それに対する智識と力である。前者は私が今日迄解説して来た医学の誤謬〈や病理その他であり、後者は浄霊による治病の力である。」
と説いている。
応神堂の開業にあたって、教祖は開業ビラを作り、それを広く配って大大的に宣伝をした。
そこには教祖が神示以来、救世の情熱を胸に、営々と積み重ねてきた歩みと、浄霊の力のすばらしさが説かれている。
稟告(*)
「余が創始の岡田式神霊指圧療法は今より八年前突如聖観世音菩薩の霊感を亨いかなる病者も治癒すべき大能力を与ふるに依り世の為匡救〈きょうきゅう〉(**)の業に従ふべしと爾来〈じらい〉数年千余人に及ぶあらゆる患者に施術したる処その偉効は神の如く難病重症等全治せざるなく真に驚嘆すべき成果を挙げつつ今日に到れり。(中略)
茲〈ここ〉に於て帝都の中心麹町区に施術所を設け大いに救世済民の志を遂げんとす。」
* 申し上げること
**誤りを正し、救うこと
稟告に記された文章の行間からは、昭和元年(一九二六年)より八年間にわたる研鑚を終わって、満を持していた好機が、まさに到来したことを確信し、救世救人の情熱をもって立ち上がった教祖の心がにじみ出ている。
浄霊を始めたころは一日数人くらいの病人が訪れていたが、そのうちに奇蹟によって人が人を呼び、また宣伝ビラの効果もあったのか、しだいに訪問者がふえてきて手狭になった。そこで三、四か月後には、すぐ近くの麹町分所に浄霊施術所を移したのである。
しかし、宣伝に使ったビラは間もなく当局の問題とするところとなって、教祖は警察から呼び出しを受けている。昭和九年(一九三四年)八月二八日の『日記』には、
朝早く警察に行き広告の誇大の始末書をとられける
という歌がしたためられている。おそらく、投書か密告による呼び出しであろう。麹町警察署に出頭し、簡単な取り調べを受け、始末書を書いた程度で済んだものと思われる。
応神堂に移って以来、教祖の身のまわりの世話をしたのは、弟子の中島一斎の母・照代と妹・ひろみであり、教祖の秘書役を勤めていたのは井上茂登吉であった。教祖はときおり、妻子を呼び寄せ、また、みずから大森へ出かけることもあったが、毎日を忙しく浄霊に専念する生活を送っていたのである。