昭和十五年十一月二十八日、明主様が医師法違反の容疑で玉川署に呼ばれ、三日間にわたって勾留されるという事件が起こった。これが第二次玉川事件である。この時に明主様は、昭和十五年十二月をもって、それまでの療術行為から身を退かれることを宣言された。明主様の「今後は療術行為を廃業する」とのお言葉を承って、弟子たちは官憲の圧迫に対する憤懣と、今後の活動に対する不安とでいっぱいになった。そして主だった幹部が上野毛の宝山荘に集まった。十二月一日のことである。明主様はこの時集まった者たちを前に、療術から身を退き第一線の御神業を弟子たちに任せることを告げられたのであった。この時から、明主様の活動は新たな段階を迎えられることになる。
この明主様への弾圧は、御神業が新たな段階へ飛躍する神定めの経綸であり、明主様のご神格は一段階上がることになった。弾圧という災厄が、明主様を治療という限定されたご神務から解放し、高度で総合的な宗教的指導を行なえる自由な立場、それまでより一段上の立場へと向かわしめたのである。それまで明主様が直接あたられた一般の治療や初歩的指導をされる講習を、明主様のお許しを得た弟子がさせていただくことになったのである。
これまで「岡田式指圧療法」の名で行なわれてきた治療も、「お守り」を授ける講習も、これ以降は特に許された主要な弟子たちが代行することになった。これは昭和十六年の立春の日をもって実施された。この時、代行を許されたのは、渋井總斎をはじめとして中島一斎、坂井多賀男、木原義彦、荒屋乙松、川上吉子の六名であった。代理を務めることになった者たちは、のちに『岡田式療病術講義録』と改称した教祖の著書『日本医術講義録』や『観音講座』を基本にして講習会を開くことを申し合わせた。また、それ以降の講習会の名称も、旧来の「岡田式」に代えて、それぞれ六名の姓を冠することになった。「渋井式指圧療法」の呼称もまたこの時に生まれたのである。
この改革のことを当時「新体制」と呼んだのだがこの体制の発足を祝い、また明主様の誕生祝いを契機として、主だった高弟たちが主催する会食会が次々に開かれるようになった。これは弟子各人が創意工夫を凝らして、明主様にお喜びいただくとともに、明主様と親しく会食の機会を持つという主旨のものであった。それまで自邸に弟子たちを個別に呼んで行なわれていた明主様の指導会を、今度は高弟たちが主催する会という形に発展的に解消したものである。
ここで選ばれた弟子たちは、それぞれ会を組織して明主様へのご奉仕と布教に挺身することになった。これが本教の組織的拡充発展の基礎となり、教会制の原点となったのである。この時、總斎自身が組織し全体の主管を務めることになったのが「大内会」である。この「大内会」はのちに「日の出会」と改称し、そして「五六七会」へと発展をとげていく。
總斎が主宰をした「大内会」は第二次玉川事件後にできた組織なのだが、実は事件の三ヵ月前の昭和十五年九月十五日、「大内会」という名称こそ用いていないものの、總斎は明主様ご夫妻を東京目黒の雅叙園に招待し会食している。この日の会食は、気軽に料理を楽しむという企画であったが、これが発端となって、翌年から毎月、明主様をお招きして親しくご指導を仰ぐ、映画と会食の催しが行なわれることになった。昭和十五年頃からは当局の執拗な干渉があり、宝山荘での会合が開催しにくくなっていたという事情もある。
雅叙園でのこの会食会を契機として、翌昭和十六年、明主様の戸籍上の誕生日である一月二十二日に、東京芝の紅葉館で「大内会」の第一回目の会合が持たれることになった。紅葉館は明治天皇がお使いになったという由緒と格式を持つ料亭であった。ここに明主様をご招待することで、總斎は自分がなしうる最大級のおもてなしをしたのである。「大内会」は毎月一度の講演会、会食会を開催したが、總斎は明主様をお迎えするについて常に一流の料亭にお招きし、最高級の料理をお召し上がりいただくことに最善を尽くそうとしたのである。
そして、この日、一月二十二日の会で總斎を中心とするこの会の名称を「大内会」とする旨の発表をし、その発会式としたのである。
總斎をはじめとする高弟たちは、年ごとに悪くなる食糧事情のなか、何とかして明主様に喜んでいただける会食会を持ちたいと努力していた。その後、会食会で主に使われた場所は、芝「紅葉館」、日比谷「帝国ホテル」、上野「精養軒」、赤坂「星岡茶寮」、目黒「雅叙園」、丸の内「大東亜会館」「中央亭」、新宿「東京会館」、横浜「一楽」、その他「宝亭」「リッツ」「平安楼」「偕楽園」などで、この会食会は映画鑑賞後に行なわれる場合もあった。このような信徒の御用に対して、明主様もまた心を込めて応えられたという。
昭和十六年七月二十二日、「大内会」の会食会が江ノ島の対岸にある片瀬の旅館「岩本楼別館」で行なわれた。しかし、あいにくこの日は台風が関東地方に接近し、前日から豪雨が続いていた。しかも雨足は強くなるばかりである。明主様は「大内会」を主管する總斎に対して、予定をとりやめて会食会を延期してはどうかという提言をされた。
しかし、總斎は、遠方からの信徒はすでに出発し、全員が万難を排しても今日の集いに参加する覚悟なので、せめて御講話だけでもと懇願した。明主様はその總斎の願いを聞き入れ、迎えの車に乗られて豪雨の中を片瀬まで出かけられたのである。しかし、海は荒れ狂うばかりで怒濤凄まじく、付近の住民の中には避難の準備を始める者さえあった。会場に当てられた「岩本楼別館」でも台風に備え雨戸を全部閉め切っている。
しかし、これほどの嵐にもかかわらず参加予定者全員が参集した。なかには暴風雨に傘をとられ、ずぶ濡れで会場に着いた者もあった。片瀬には明主様、「大内会」の一行のほかに観光客の姿はなく「岩本楼別館」を独占した形になった。やがて開会となり、明主様はその冒頭次のような話をされた。
「時局は風雲穏やかならざるあり、今日のお天気もその雛型の如き気がする。ここにお集まりの方は病気の治った方、または病気で困った人を救いたいという気の大いにある方ゆえ、病気というものには、この療法の治るという意味を根本的、徹底的に知っておかなくてはならぬので、できるだけ判るようにしたい」
と前置きされ、霊と体との両面から病と浄霊の関係について説かれたのであった。
「なにぶん観の療法は、特に病気についての解釈は前人未発ともいうべく、よほど頭を白紙にしないと判り難い。一般の人は西洋医学で教育されているので、私の話と全然反対なんで、そのつもりで聞かれたい。今後、迷ったり判らなかったりする、それは根本的認識ができていないからである。私が今著している本の序論を読む。(以下略)」(昭和十六年七月二十二日講話。未発表)
講義に続いて、宴が始まったが、嵐はますます激しさを増すばかりであった。すでに江ノ島にかかる橋は流されていた。このため途中で会を切り上げ、明主様は嵐の中を帰路に着かれた。風雨は往路に倍する激しさで、沿道にはすでに浸水している民家も多かった。道路もところどころであふれ出た雨水で川のような状態になっていたが、降りしきる雨の中を途次何事もなく、宝山荘に帰着されたのであった。