御供仕え

 この五月の夕暮れの中に、嘉丸は不思議なものを見た。いや、見せられたといった方が正しい。それは嘉丸だけになされた、總斎の最後の教えだったのかもしれない。

 嘉丸は二階の廊下の藤椅子に腰をおろした。彼は今日という日を永久に記憶に刻み込もうとしていた。父を失って改めてその偉大さを知ったからである。しかし感傷にひたってはいられない、まだまだこれからすることが山のようにあるのだ、と嘉丸は考えた──ちょうどその時である。窓から熱海の海の方を眺めていた。嘉丸は、目を疑った。なんと眼前の海から巨大な龍が空に昇って行くではないか。その龍は体を海面から半分ほど出して、ゆっくりと体をうねらせながら天に向かって飛ぼうとしている。

 桃山台は山の中腹にある。この家の二階から沖まで遮るものは一切ない。この空と海を背にした龍昇天のかたちは、あたかも一幅の絵を見ているようであった。龍の鱗の一枚一枚、ヒゲの細かい一本一本までがはっきりと見える。

 嘉丸は最初、夢か幻視であろうと考えた。しかし、室内を見ると、總斎の遺骸は間違いなく布団の中にある。彼は、今見ているのは龍の形をした雲であり、決して龍ではないと自分自身に言い聞かせて、もう一度外を見た。しかし、何度見ても本当の龍なのであった。

 慌てた嘉丸は、階段を駈け降りた。
「みんな見てみろ、龍が海から昇ってゆくぞ」
 と、家族に呼びかけるが、誰も取り合ってくれない。そこでまた二階に上がったが、間違いなく昇龍はまだ嘉丸の視野にいた。彼はフッと、精神がおかしくなったのではないかと思った。が、自分の目にはっきりと見えるものを否定することはできない。

 龍は先程より少し上昇し、その体はすべて海から離れた。体長は定かではないが、海面から空までの長さだとすれば、これは想像を超えた巨龍である。体色は銀龍か白龍かと見えた。

 嘉丸はこの雄姿を誰かに見せたいと思い、再び階段を駈け降り、
「まだ龍がいる」
 と訴えたが、誰も相手にしてくれなかった。が、再び階段を昇りかけた時、当時『栄光』新聞の記者として活躍中であった江川勝利が、「龍神だって」
 と、叫びつつ、嘉丸より先に階段を昇っていった。
江川はすぐさま、
「龍神様」
 と、言いながら廊下に座り、伏し拝んだが、今度、嘉丸が外を見ると、龍らしき形の雲以外は見えなかったのである。おそらく、この昇龍は唯一度、嘉丸だけに見せられた不思議だったに違いない。

 この龍は、宝山荘の龍神様であったのだろうか。總斎の恢復祈願とご守護のため、宝山荘の他の三体の龍神様が熱海に赴いているということであったから、まさにその龍神であったのかもしれない。あるいは明主様のご守護をいただいて、總斎が龍神の姿をとって昇天したのかもしれぬ。いや、總斎自身が生を受けた時から龍神の化身で、明主様の御用のためにこの世につかわされ、その役目を明主様のご昇天とともに終えたため、新たに霊界での御用に旅立ったのだと考えることもできる。

 今となっては、何が真実であったのかを知る術はない。もちろん丹念に明主様と總斎の関係を追っていけば、何らかの結論が得られるかもしれない。しかし、真実がどこにあったにせよ、明主様にとって、總斎がいかなる役割を果たした人物であったかをよくよく考え、一人ひとりが心の中でめいめいの“まことの總斎・渋井總三郎”を甦らせれば、回答はその心の中の總斎が出してくれるであろう。そして、それこそが、明主様に仕える“御用の人”總斎を再びこの世に甦らせることになるはずである。