大宮事件

 禁止命令を受けてから一週間後の昭和一一年(一九三六年)八月四日のこと、これまた突然、埼玉県の大宮警察署から呼び出し状が釆た。当時、大宮市内には「大日本観音会」の大宮支部があり、武井良英が支部長を勤めていた。市内には千余人の女工が働く片倉製糸の工場があり、たまたまその工場の女工たちの病気を、武井が浄霊によって治したのである。しかし、それが医師法に違反するといって騒ぎとなり警察に訴えられた。もちろん武井は留置され、その後、会主である教祖もその責任を問われたのであった。それとともに、東光男の撮った神霊写真がトリック写真であると見られていたことも、今度の呼び出しの一因であった。

 翌五日、教祖は警察署の特高課の主任と二人の刑事から取り調べを受けた。その取り調べは一方的で暴力的なものであった。返答が彼らにとって少しでも都合が悪いと、髪を引っ張るとか、竹刀でおどすといった暴行が加えられたのである。この時、暴力を振るった一人の刑事が急に頭が痛くなって部屋の外へ出て行くという不思議なことも起こったりして、いつの間にか主任一人だけが残っていた。主任はしばらくして聴取書を作り上げたが、その中で、「霊写真は岡田の作った美術写真である。」としてあった。それは事実に反するので抗議しようと思ったが、暴力を振るわれる危険性からやむなく捺印したのである。そのためその書頬は警視庁へ回され、そのままブラックリスト(要注意人物の名簿)に載ってしまった。これについて教祖はつぎのように述べている。

 「全く拷問によって虚偽の聴取書を作り良民を悪人にして了ったので、実に恐ろしい世の中と思ったのである。之によってみても当時の官憲が如何に横暴で、封建的であったかが知らるるのである。そのブラックリストの為に、その後私は事毎に苦しめられた。私が住居を変える毎に、その管轄の警察へ通報が行くので、其警察は私の監視を怠らず、何とかして私を罪人にしようと専心したので、私はどうする事も出来なかったと共に、何時ブタ箱へ入れられ、家宅捜索を受けるか判らない心配で、枕を高くして寝る事すら出来なかったのである。故に終戦迄は新宗教は共産主義と殆んど同様の扱ひを受けたといってもいい。右のような訳で私が常に思ってゐた事は、
 『自分は人類社会の為、これほど立派な行ひをしながら、之程圧迫されるといふ事は、実に残念である。しかし之も神様から修業させられるのだ。』──と思ひ直しては腹の虫を制えつけたものである。」