低い信仰では、まず自分が幸福になる、病気が治る、目にみえるおかげがいただけるということに終始<しゅうし>して、それ以上は進もうとしないのですが、これでは真の信仰とは申せません。しかし、それがけっしてまちがっているとは言えないのです。本教信仰の場合でも、神さまは信仰の入口として、そういう段階を設定されておられます。けれども、いつまでもその境地にとどまっているのはこまります。なぜならば、いつまでもおかげ信仰をつづけているのは、まるで人間が神さまを幸福の道具に使って、神さまを利用していることになります。それではいけないのでありまして、人間は神さまの道具としてこの世に生れさせられ、神さまに奉仕することによって、永遠の幸福を授かり、繁栄<はんえい>していくように、最初から仕組<しく>まれているのであります。