釈尊の説<しやくそんと>かれた火宅<かたく>の教えというのがあります。幼い子供が火のついた家の中で、戯<たわむ>れていてなかなか出てこない。人びとは危<あぶ>ない危ないといって叫<さけ>んでいるが、子供は一向平気<いつこうへいき>でおります。そこで、一番気に入る玩具<がんぐ>を見せると、はじめて立ちあがり、玩具につられて安全な場所に助けることができたというのであります。
これはたとえ話でありますが、信仰の初期は小児<しように>も同じで、高遠な真理を説いてもわかるはずはないので、卑近<ひきん>なおかげがあって、はじめて信仰の門をくぐれるのです。浄霊の奇蹟<きせき>もまた、遠大なお救いの綱として授けられていることを銘記<めいき>して、ひとりでも多くお綱に縋<すが>らせ、まず信仰の門をくぐってもらい、順次<じゆんじ>信仰の高まるのを待って善徳を積んでもらって、真の幸福者となるようお世話することができたら、信者としても一人前<いちにんまえ>と申せましょう。