入信した以上早く神心に徹しきる

 私どもが入信への手がかりとして、病気治しをさせていただくのも、実は心直しの手段<しゆだん>であって、目的ではないのであります。不治<ふじ>の病気を治された喜びが、不信仰という心の病気を治すことになるのです。信じなくても治るということは、わけのわからぬ人間には、まず神様から奇蹟<きせき>を与えてやろうとの、特別のご処置<しよち>であって、それを当然<とうぜん>のことのように考えるなら、あまりにも勿体<もつたい>ないことだと思います。大慈大悲<だいじだいひ>の大御心の、万分の一なりとわからせていただきますと、この浄霊という神力が、いかに大きなお救いの綱であるか、また、浄霊が救世の大業<たいぎよう>につながるものであるかが、心底から了解<りようかい>され、いまさらのように、使命の重大さをさとるようになります。

 きのう、きょう入信された方は別として、本教の取次者<とりつぎしや>ならば、もはや、小乗的<しようじようてき>信仰や、身欲的<みよくてき>信仰の境地にいられるはずは、ほとんどないものと思っていますが、仮にそういうふうに、本教を思ったり見たりしていられる人があったとしたら、それは、けっして救世教の理解者<りかいしや>ではありません。いつまでも小児的<しようにてき>信仰の域<いき>を脱<だつ>しきれない方々には、それにふさわしい小乗信仰も世間にはありますから、むしろ、そちらへ移<うつ>っていただいた方がましと思います。

 これからは、神様から渡されるお荷物<にもつ>(御用)は、より大きく重くなるのですから、よくよく身魂を磨いて、信仰向上しておくことが大切であります。それには、ほんとうに己<おの>れを捨<す>てて、神心に徹<てつ>しきって、御用に立ち向かう体制<たいせい>を、早く確立<かくりつ>することこそ根本であります。