神様は天上の栄えを、そのまま地上に映<うつ>して地上天国<ちじようてんごく>となし、人類<じんるい>に永遠の喜<よろこ>びを与えんと計画<けいかく>されて、まず神様に代わって地上経綸<けいりん>の主体となる、人間を創<つく>られたのであります。それゆえ、人間は神様と同じ形、同じ質の心を賦与<ふよ>されて、自由まで許<ゆる>されたのであります。 たとえば、大海<たいかい>の水も、汲みあげた一荷<いつか>の潮水<しおみず>も、その本質にはなんらの相違<そうい>もないように、人間と神様とは、その本質においては同一<どういつ>なのでありますが、神様と和合<わごう>するかしないかで、人間の性質にも活動<はたらき>にも、天地霄壌<てんちしようじよう>の差が生<しよう>ずるのは、理の当然といえましょう。神様と和合すれば、その愛は人類愛へと向上拡大して、利他愛善<あいぜん>の行動をとることになりますが、神様と絶縁<ぜつえん>し、小我<しようが>にとどまるものは、愛は自己愛となり、他を省<かえり>みぬ行動をとるようになりがちです。
このように、本質においては神様と等<ひと>しい人間も、神様と和合するとしないでは、反対<はんたい>の結果を生ずるのであります。とすれば、神様に通うこそ人間の最大の義務といえないでしょうか。味<あじ>のよい果物<くだもの>には害虫<がいちゆう>がつきやすいといわれますが、神様の道具<どうぐ>として創られた霊妙<れいみよう>な人間にも、隙間を狙う悪魔<すきまねらあくま>の誘惑<ゆうわく>がありますので、どうしても人間は絶対の神様に縋<すが>り、神様と和合しなくてはならぬように、はじめから仕組<しく>まれ、創られていることを、まずさとらねばならぬと思います。