涙の奉仕

 教祖の昇天という予想だにせぬ重大事を迎えた教団は、その夜、緊急役員会を開き、教祖の遺志に従って、よ志を二代教主に推戴した。また衆議の結果、墓所祭を二月一七日と決め、箱根・神仙郷内に奥津城を建設し、教祖の遺体を埋葬することを決定したが、そこは奇しくも生前、教祖が弟子や側近者に、みずからの永遠の住まいの作られるべき場所として語っていた所と一致していることが、後になってわかったのであった。

 昭和二九年(一九五四年)、最後の夏を箱根で過ごしたおり、教祖が側近者の一人に、

  「今にあそこが私の永久的な住居になるんだ。」

と語っていた事実を知り、関係者はあらためて神秘の思いに打たれたのであった。

 この奥津城の建設は奉仕の信者たちが悲しみの中から立ち上がり、昇天から一週間後の墓所祭に間に合うよう、昼夜兼行で懸命の作業が進められ、奇蹟の事業といわれたものである。

 箱根・神仙郷は富士・箱根・伊豆国立公園の中にあり、風致地区でもあるため、その地に墓所を建設し、しかも遺体をそのまま埋葬する、いわゆる土葬ということは、本来であれば到底許可されないことであった。しかし、この難問題も、弟子たちの熱意と努力によって奇蹟的に乗り越えることができた。とくに神奈川県庁との折衝にあたって真情を訴え、理解を得るのに大きな働きのあったのは、かつて神奈川県警察本部に勤務し、その方面に知り合いの多かった石原虎好(後・相談役)であった。石原は広島県警察本部長の時代に被爆し、原爆症のために苦しんでいたが、浄霊によって救われ、入信したのである。石原は教祖昇天後も、教団本部にあって活躍し、昭和五五年(一九八〇年)五月二日、享年七八歳で帰幽している。こうした弟子たちの働きによって、昇天後二日目の一二日に提出した「私有墓地新設許可願」に対し一五日には公式に許可がおりたのである。

 工事は草刈りや樹木の伐採に始まり、急斜面を削って、低い場所へ土を盛り、そこへ直径五間(約九メートル)、六間(約一一メートル)、七間(約一二・七メートル)という三層の円墳を造るという大規模なものであった。当時奉仕隊員の数は、箱根、熱海合わせても全員で一〇〇名に足らず、その中には女性もいるので、日数を考えると実現は不可能であった。そこで、ある土木会社に工事を依頼しようとしたが、計画を話し現場を見せたところ、とてもできないと断わられてしまった。期日を延ばすことはもちろん許されず、信者の力によってなんとしても完成させなければならない。最寄りの教会に奉仕を依頼するとともに、万端にわたって準備が整えられ、いざ着工したのは一四日のことであった。

 ひとたび工事が始まると、夜昼間断のない突貫作業が続けられた。昼はもちろん全員が作業にあたり、夜は二、三時間の交替で仕事が進められた。

 箱根の冬は相当冷えるが、夜がふけると寒さは骨身にこたえるほど厳しくなる。しかし凍てつく寒さよりも悲しみがまさり、肌をさす寒さの痛みよりも、心が痛んだ。奉仕者の中には、作業に携わりながらも、在りし日の教祖の姿が、そしてその声が思い出され、すすり泣きながらモッコをかつぎ、スコップを使う者もいた。

 作業員は、信者も職人も、休憩になると作業着のまま仮眠をとり、交替時間がくると、また起き出して働いた。とりわけ現場責任者だった相馬直治らは、入浴もせず、鬚もそらず、着替えもせず、文字通り不眠不休であった。寒さと過労で体力の消耗が激しいので、みな、用意の砂糖湯や汁粉をすすって身体を暖め、生卵を飲んで元気をつけたのである。

 もし、この間に雨か雪が降ったならば、土がぬかって大変な難工事になるところであったが、四日間ほとんど降らなかったことも幸いして、作業を予定通り順調に進めることができた。

 相馬は当時を回想して、
 「まったくの不眠不休で、あの時のことを思うと恐ろしいくらいです。実際、作業に携わった 我々自身も、できあがった時、どうしても信じられなかった。あの時のことを思い出すと涙が出てきて仕方がありません。」
と感慨を込めて語っている。

 こうして奥津城は、延べ約一二〇〇名にのぼる奉仕者と、五五五名の職人の手によって、一四日の日から、一七日の午前中まで、正味三日あまりのうちに完成をみたのであった。もちろん、完成といっても奥津城自体、三層にした盛り土の原型の完成であり、今日見るような玉石を貼ったものではない。また周囲にしても、石垣、敷石、芝生などはいっさいなく、現在立っている老い松が数本、亭々としてそびえ、その根方には盛り土が黒々としているばかりであった。