無信仰者への思いやり

 明主様は、『信仰は信用<しんよう>だ』とか、『信用に勝<まさ>る財産<ざいさん>はない』と、つね日ごろおっしゃっておられましたが、神様につねに誠をつくすものは、神様から信用されるわけです。そして、このものは誠のものであると、神様がその行ないを見てご信用くださいましたならば、あとは少々無理<むり>なお願いでも聞いてくださるし、おかげの前渡しもしてくださるのです。

 これは、たとえていえば、浄霊の場合、よく私どもは信じなくても治<なお>ると申しますが、あれは順序からいうと違うのです。神様は、取次者の誠をご信用してくださっているから、信じないものにもおかげを前渡ししてくださるのです。浄霊は信じなくても治るんだ、と気楽<きらく>そうにいっておりますが、そうではないのです。神様は信用によってくださるのです。これは、みなさまの信仰が、ほんとうに真心をつくしてやっていられるという証拠<しようこ>でもあるわけです。

 人間の世界でも、お金がなくても信用で大きな取引ができるというように、やはり同じであります。これは絶対に裏切<うらぎ>らないということを、つねの行ないで信じてもらえるからできるのです。それを都合次第では、味方<みかた>も敵<てき>になるというのでは信用ができません。どこまでも松の心で変わらない、その人のためになるということでなければ、信用というものはできないのです。ことに信仰がありますと、例外なく、人間すべては神様の子であるという見地<けんち>に立ちますから、たとえ、自分に背<そむ>いていく人でも、また、背いている人でも、信用をもつことができます。そして、神の同胞<どうほう>として、相手の幸福を願う気持が一貫<いつかん>してあるわけです。

 信仰者は根本において、どんな人といえども敵とせず、その幸福を願っていくという点において、信仰は信用なりということになるのです。本教は救世を目的といたしまして、明主様以来とくに無信仰の人びとを大切<たいせつ>にしております。信仰に入った人は、神様がお救いになり、お導きになるから安心なのです。それでわれわれは、いつも無信仰者のためを思い、その人たちに神様をわからせたい、と日夜<にちや>それのみにかかりきっているわけであります。