御教書<みおしえ>拝読も、字句に囚<とら>われておるうちは、まだ信仰が浅いので〃読書百遍意自<おのずか>ら通ず〃と古人も言いましたように、まず白紙の心になって、拝読することが肝心<かんじん>でして、そのうちに、おいおいと身魂に力がついてきて、ほんとうのことがわかるのであります。
そして、紙背<しはい>を洞察<どうさつ>する程度の智慧証覚が具<そな>わってきたときには、もはや御教書はいらないものとさえいえるのであります。なぜなら、御教書に盛られた神意は、全部魂の方へ吸収<きゅうしゅう>されてしまったからでありまして、そこまでいけば何ごとにも囚われぬ真の活動ができるようになるのであります。
それについて、こういうおもしろい例があります。昔話<むかしばなし>ですが、たしかひじ山村というところと記憶<きおく>しておりますが、そこにおさくさんという、大変信仰の篤<あつ>い人がありました。その人は朝に晩に経文<きょうもん>を読んでおりましたが、ある日、おとうさんが、おさくさんが観音経<かんのんきょう>をお尻<しり>の下に敷<し>いて、せっせと仕事をしておるのを見てびっくりし、「おさくや、昨日まであんなにお経を一生懸命拝んでおったのに、どうして急にお尻の下などに敷いて仕事をしているのだ。もったいないではないか」と言いますと、おさくさんはすました顔で、「いいえ、もう観音経やいろんなお経は、みなこのおさくの体内に入ってしまわれて、もうこれは空<から>っぽですからこれでいいんです」と答えたそうです。
この時<うわさ>がだんだんひろがり、当時の名僧、白隠禅師<はくいんぜんじ>の耳に入ったのであります。
禅師は、「そういう珍<めずら>しい女性ならば、一度会ってみたいから連れてこい」ということでおさくさんが禅師のところへ行ったのであります。会っていろいろ話してみると、そのおさくさんのさとりは大したもので、何を聞いても返答に困らなかったのであります。それで禅師は、自分の高弟たちを集めて、おさくさんと問答<もんどう>させたのですが、とても敵<かな>わなかったというような話です。
このように、字そのもの、文句そのものでもなく、その中に流れておる精神を汲<く>み取<と>って自分のものとすれば、ふだんは忘れておっても、肝心なときになると、そのいただいたものが、必要なだけちゃんとできてきて、千変万化の活動ができるのであります。