明主様とのご旅行

 昭和十六年になると、この会食会も開催場所は東京だけではなく、明主様ご夫妻を日本各地への旅行にご招待し、神社仏閣や名所旧蹟あるいは景勝地を訪ね、その地の文化、芸術を楽しみながら明主様のご指導を仰ぐという形式に変わってきたのである。これも總斎をはじめとする明主様の高弟たちがまわり持ちで計画実行していたようである。この明主様のご旅行は昭和十六年五月頃から十八年四月頃まで、断続的に行なわれた。

 この間の明主様のご旅行の行き先と期日については、『東方之光』下巻で紹介されているので、ここで引用しておく。

 十六年五月 綾部・丹波・元伊勢(京都府)、奈良、京都、近江(滋賀県)
六月二十二日 鹿島神宮(茨城県)、香取神宮(千葉県)
六月三十日~七月二日 伊勢神宮(三重県)、長良川(岐阜県)
八月二十二日 日光・東照宮、二荒山神社、湯西川温泉(栃木県)十月二十二、三日 熱海、箱根 
十一月二十五日 御岳神社(東京都)
十七年五月 大宮・氷川神社、吉見百穴(埼玉県)
七月十四、五日 熱海、伊豆海岸、修善寺(静岡県)、箱根
十一月五日~七日 善光寺、戸隠(長野県)、草津温泉(群馬県)十二月二十三、四日 保田、外房州(千葉県)
十八年四月 三浦半島

 昭和十六年ともなると戦争の影響が日常生活にもその影を暗く落とすようになってきた。東京では野菜不足で店頭に行列ができたり、女子の軍事教練が始まっている。そして昭和十七年四月には京浜、中京、阪神方面で初めて空襲を受け、物資も目に見えて不足してきた。ミッドウェー海戦で大敗したため、戦局が急速に日本に不利にをってきたのも昭和十七年であった。このような時期の旅行を計画実行するというのは生半可なことではない。全部で十一回にも及ぶこのご旅行のうち、總斎は、伊勢神宮行きを除いてはすべてに随行している。

 明主様にこれほど多く随行した者は總斎をおいてほかにいない。資金面においてもたいへんであったろうし、何よりも人の手当て、移動手段、また宿の手当て等々、さまざまな点に目配りを怠ることはできなかったろう。ましてや明主様をお迎えしての旅行である。不手際があってはならないのである。特に昭和十六年の五月の綾部、丹波、元伊勢、奈良、京都、近江へのご旅行に際しては、東京・杉並にあった家作十数軒を処分し、その旅行の経費やその他に充てるためにすべて献金したという。總斎が明主様の御用をさせていただく時には生半可なことで終わらせてはいない。

 もっともこのご旅行は、せいぜい五、六名が明主様のお供として随行させていただくだけであるから、その点、気心の知れたうちうちの会で、戦争という時代の中で息詰まる日々を過ごさざるを得なかった者たちにとって、明主様との旅行は何ものにも代え難いものであったといえる。總斎が明主様のためにさせていただく御用の中でも、師弟相集い、親しく歓談の時が持てるこの旅行は、總斎にとっても重要な意味のあることだったに違いないのである。これらの旅行時、日帰りの場合、總斎は必ず家族を伴っていた。

 また当時、總斎は明主様と同様に御神業で多忙なため、家族に対する十分な心遣いができず、今日のような家族サービスなど考えも及ばなかった。そこで總斎は明主様のご家族とともに、自身の家族を伴い年一回であるが幾度かの小旅行を企画した。

 さて、總斎がお供したご旅行のうち、明主様の御神業の上で重大な意義のあるものは、丹波、元伊勢神宮、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮、そして善光寺への旅であった。これらのご旅行には伊勢神宮を除いてすべて總斎は随行している。また、昭和十六年に、これも總斎を伴って訪れた日光の奥の湯西川温泉では、明主様にとっても貴重な体験を得られたと伝えられている。現在の自然農法の基礎となった「無肥料栽培」についての確信である。

 明主様は農薬、化学肥料で栽培する近代農業が人間生命をおびやかし、健康を害する農法であるとして、自ら神示による自然農法を実施された。總斎は明主様の人類を救う上に欠かせぬ自然農法に対して、そのみ心を受け、布教活動に併行し、自然農法の普及拡大に、献身的な活動を展開した。

 昭和二十一年頃、總斎は小田原別院で農業従事者などを集め、自然農法の教えに基づき講義を行ない、広く啓蒙活動を行なった。渋井は栃木に多くの田畑を所有し農業に関する知識も豊富であった。

 自然農法実施者である信徒が、渋井に自然農法産米が収穫できたことを報告するとたいそう喜んだ。さっそく、昭和二十一、二年頃には、宮内省の甘露寺掌典長を通じ、昭和天皇にその米を一俵献上している。後日、関係者を通じ總斎の許に昭和天皇のお喜びの言葉が届けられた。
 
 湯西川温泉はもともとは明主様が大正十二年にお訪ねになろうとして叶わなかったところであったのだが、この年、總斎の尽力によりそれが叶ったのである。

 ここは平家の落人によって開かれた山奥の寒村であったが、村には、不思議なことに病人がいないというのだ。それは無医村で、徹底した菜食主義の村であったからだという。川はあるが魚は食せず、また鶏も飼っていないから卵も食べないという。明主様の食事観・医学観をそのまま実証している希有な地域であった。この他への旅行は明主様の心に強い印象を残すことになった。この時の明主様の紀行文「湯西川温泉」を見てみよう。

湯西川温泉

 私は、ある年の夏であった、目的は以前行き損った奥日光と塩原の中間にある湯西川に遊ぶべく、途中上州の川治温泉で昼食をなし、そこから一里半山に入り、渓流に懸った橋を渡り、かねて用意させておいた牛車に乗り、まったく牛の歩みの通り四里の途を六時問かかってやっと夕暮れ湯西川へ着いた。ここは渓流に添った平凡な温泉で書くほどのこともないが、ここ湯西川村の存在理由について書かねばならないことがある。(中略)

 最初一族がここへ来たときは食糧がなく、仕方なしに葛の根を食ってわずかに露命を支えていたそうである。そうして驚くべきことはこの村には病人が全然ないということで、現在大酒のため中風になった爺さんが一人あるだけだとのことである。結核などは勿論一人もない。彼女のいうにはこの土地のものは近くの日光から先へは絶対縁組をしないそうで、まして東京などには行く者はほとんどないとのことである。それらは何のためかというと東京などへ行くと肺病になるからだという。ところが面白いことにはこの村は無医村で絶対菜食である。附近の川に山女や鮎などいるが、決して捕ろうとはしない。なぜなれば先祖代々魚を食ったことはないからで、別段食いたいとも思わないというのであるにみて、いかに徹底した菜食村であるかが知られるのである。以上の事実によってみても無医薬と菜食がいかに健康に好いかという事実で、まったく私の説を裏書きしており非常に面白いと思った。(以下略)(『天国の礎』宗教 下)

 そして、そのような意義深い地への旅行に總斎が同行できたというのも何事か意味のあることではなかっただろうか。

 なお、昭和十七年十二月二十三、四日の保田、外房州旅行だが、この時、明主様はご自身の還暦の誕生日に、かつて昭和六年に「夜昼転換」の天啓を受けられた鋸山に登ることを希望された。そのために保田へのご旅行を計画されていたのだが、太平洋戦争のためにこの周辺は要塞地帯となっており、残念なことに山は立入り禁止となっていたので、やむなく登山をあきらめられたのだった。そこで今回のご旅行は明主様の還暦のお祝いとして、鋸山の麓にあった志保沢多計司(日本観音教団二代目管長)の別荘で開かれることになった。總斎をはじめとする幾人かの幹部や奉仕者たちは、二日前から掃除やその他の準備に赴いていた。これらの明主様とのご旅行は、先にも触れたように、明主様からご指導を仰ぐ会食会から発展したもので、もともとは弟子たちが明主様からみ教えを乞うことが目的であったと考えられるのだが、見てきたとおり、明主様ご自身も、これらのご旅行からさまざまな体験を得ておられる。そのように師弟がそろって見聞を広め、学ぷ機会を共に持ち得たということは重要な意味を持っていた。

 この時、明主様は還暦を期して次のお歌を詠まれた。

 本つ暦に
本つ暦に還りし今日ゆわが生命
  捧げまつらん大君のため

しかし、現在収録されているお歌は、
本つ暦に還りし今日ゆわが生命
     人の世の為いや尽はめや   (『明磨近詠集』)

 と下の句が改められている。下の句を変えた経緯として、後者は戦後出版された歌集に収められたもので、その際に戦時色の強い表現を改めたものと考えられる。

「日の出会」から「五六七会」へ

 總斎は熱海、箱根という、現在、本教の聖地となる重要な場所を明主様に随行して二度も訪ねている。もっとも、明主様はそれ以前から何度となく熱海、箱根を訪れていた。しかし、この昭和十六年、十七年の二度のご旅行については明主様ご自身が記録を残されている。

 昭和十六年には熱海から箱根へ向かい、富士屋ホテルで一泊し、翌日は江ノ島経由でご帰京。また昭和十七年には伊豆から箱根を周遊。まず熱海から伊豆の東海岸を通り、西伊豆海岸をまわって修善寺温泉の新井旅館に一泊し、翌日は三津海岸から沼津、そして御殿場から乙女峠、強羅を経て、小田原から横浜経由で帰京されている。

 明主棟は戦局が厳しくなるにつれて、ご自身の移転先を探しておられた。これは疎開ということではなく、御神業が発展するにつれて明主様のみ教えを広めるための殿堂を必要とされていたからである。そのために東京を離れ、ご自身の活動の拠り所となる土地を探しておられたのである。この御神業の場所として、明主様は当初から熱海と箱根に注目しておられた。この地を、明主様が最も信頼をおいている總斎とともに見ておかれたかったのではないだろうか。そういった重要な意味を、總斎を伴った明主様のご旅行は持っていた。

 紅葉館での「大内会」発会の記念式典から一年後の昭和十七年一月二十五日、總斎は新宿の治療所に明主様のご来臨を仰ぎ、幹部一同でお迎えした。ちょうど二度の熱海旅行の間のことである。「大内会」では、できる限りのおもてなしをした。明主様は、この日から「大内会」を改め、今後は日の出の勢いで発展するという意味で「日の出会」とご改名くださった。用意された色紙に、ご染筆、下附されたのである。この日のためにお詠みくださった短歌や冠句を朗詠し、武蔵野館で映画をご鑑賞のあと、新宿の東京会館でご会食された。その料理は豪華さ、美味この上なく、おそらく当時の大臣級の人物でも口にできぬものであると評された。總斎は明主様に対していつもこのように徹底的に仕えていたのである。

 明主様はその日、

朝寝坊いよいよやめて日の出会

 とお詠みになったが、この一月からそれまでの朝寝、夜更かしの例をおやめになり、お目覚めを早くされるようになったという。この日、ご染筆になった句とお歌を紹介する。

 これからは日の出の勢と出来た会

 光明の世の魁は日の出会

 闇がりが引込めや代わって日の出会

日の出会生れて東亜の暗が消え

将来は会員二十億の日の出会

天の岩戸開け初むるなる此時に 日の出の会を吾作りける

久方の雲打ちはらし輝よひて 日の出の会は生れいでにける東海の秋津島根にふさはしき 会をつくりぬ日の出とふ名に

 さて、このご講話会は、明主様をご招待申し上げて親しくみ教えを賜わることで、発展への道を開くことになった。「大内会」から「日の出会」へと改称された總斎率いる信徒の集まりは、文字通り旭日昇天の勢いで発展した。会食会も頻繁に行なわれ、多くの参集者があった。そして他の会からも会長等が客分として参加するようにもなった。この会食会及びご旅行は、昭和十九年、明主様が箱根に移られるまで続けられたのである。

 もとあとこの明主様とその高弟たちの集まりは、明主様の御神業の進展に伴って生まれたものである。この集まりを通して明主樟のお仕事を、總斎をはじめとする高弟たちは分業して務めることになったのである。いわば明主様のみ心、ご計画を実現するための実践者なのである。十分に明主様の御神業をさせていただくためにも、この会を大きくし、明主様の信頼にお応えすることが肝要なのであった。明主様のお言葉を素直に実践すれば会は大きくなり、明主様の大きな御用をさせていただくことができる。總斎の心はこの点にあったのではないだろうか。

 この「日の出会」は二年後に、「五六七会」と二度目の改名をいただくが、「五六七会」は他の会派が及びもつかないほど多くの信徒を集めることになる。これはまさに總斎が明主様のみ心を正しく理解し、ただ明主様の御用に励むこと、その一点をゆるがせにすることがなかったからである。總斎はただ単に、信徒を集めることに熱中していたのではない。やみくもに組織を拡大しようとしても、のちにみるような途方もなく大きな信徒集団を形成することは不可能である。總斎の明主様に対する誠心が人の心を動かし、集め、組織していったのである。力ずくを好まない總斎の人となりが、そして霊的な力がそれを可能にしたのであろう。ここに總斎の真骨頂があるのであり、同時にそれこそが明主様のみ心に叶ったことなのである。

 明主様に代わって療術行為を行ない、信徒の組織化を図るようになったということは、ある意味で明主様に近づいていく一つのステップであったとも考えられる。明主様と同じになるというのではない。しかし、明主様の目指されている方向を目指し進むようになり、明主様の行なっておられた御神業をさせていただき、それによって明主様のみ心に叶うことができるようになってきたのだ。