教育者の引き起こす問題に当局<とうきょく>が頭をいため、その対策<たいさく>に腐心<ふしん>している話をよく聞きますが、これは教育者自身が謙虚<けんきょ>な宗教的情操<じょうそう>、あるいは、見えざる神様への随順といった、人間本然<ほんねん>の姿に復帰<ふっき>するのでなければ、いかに施設や環境<しせつかんきょう>を整え、物質的に万全を期<き>しても、教育の真の目的を果たすことは、とうていでき得ないものと思うのであります。なぜならば、無神論者がいくら心の問題を取り上げてみましても、それは像を作るだけで、魂を入れることはできないからであります。子どもは大人の真似をするのが身上で、自分たちの力のおよばない大人の世界はすべて驚異<きょうい>であり、憧憬<あこがれ>でありますから、見よう見<み>真似<まね>で、懸命<けんめい>にそれらを学ぼうとするものであります。男の子が父の真似をしたり、自動車やその他、動的な玩具<がんぐ>を好み、女の子がままごと遊びに熱中いたしますのも、母や姉の真似なのでして、家にあっては父母の感化<かんか>、学校にあっては先生の感化を受け、それが知らず知らずの間に子どもの将来に大きく響<ひび>いていくのでありますから、道徳教育はもっとも大切なこととして、大いに歓迎<かんげい>いたしたいのでありますが、それにもまして大切<たいせつ>なのは先生の再教育、父母の再教育ではないでしょうか。人の言動<げんどう>はその人の抱持<ほうじ>していを思想の表現、人格<じんかく>の顕現<けんげん>ですから、どうしても教育の真の成果<せいか>をあげるには、教師の質から改良<かいりょう>していかねばならないものと思う次第であります。