心豊かな生活

 「生活の美化」とか、「生活の芸術化」といいますと、まず衣食住の問題から解決してそのほかに特殊<とくしゅ>なお膳立<ぜんだ>てをしてかからねばと思われる方もあるでしょうが、生活の芸術化ということはそんな難<むず>かしいものではありません。何も贅沢<ぜいたく>な茶室を建てたり、床の間に名幅<めいふく>をかけたりすることでもなければ、また、すばらしいレコード・プレーヤーで名曲をかけ、庭には高価なバラの花が咲き香<かお>っていなければならないものでもないのです。よしんば、そのような環境<かんきょう>に恵まれたとしましても、その人自身に美を解<かい>し、美を味合う性情<こころ>がなければ、名曲も名画もあったものではありません。ところが、世間には案外そうした人が多いので、たとえば、応接間にある立派な油絵<あぶらえ>、または床の間に掛けられた見事な日本画も、そのじつ、株券<かぶけん>や土地と同じように、蓄財<ちくざい>の目的であるとしたら、そこには芸術を娯<たの>しむ心など薬にしたくもないわけです。生活の芸術化とはけっしてそのようなものではありません。

 よく道具屋の目習<めなら>いとか申しまして、いいものを一日に一度は見ておけと申しますそうですが、そういたしますと、知らぬ間に鑑賞眼<かんしょうがん>が高まって、将来大いに得<う>るところがあるということです。よい霊気の籠<こ>もったよい作品に接することは、第一に心が浄められ、第二に美意識を成長<びいしきせいちょう>させるものですから、暇<ひま>があったら美術館やギャラリーなどに出かけ、鑑賞眼を養うことは本教人にとって、明主様の思召しもあり、ことにお勧<すす>めするものでございます。

 元来、美に対する憧憬<どうけい>は人間の本能であります。この憧憬の心さえあれば、一枚の名画を持たずとも、一個の名器を所持せずとも心がけひとつで日々の生活を芸術味豊かなものとすることは、いくらでもできるのでありまして、その点信仰とまったく一致しております。信仰も芸術も、資産<しさん>のあるなし、暇のあるなしに関<かか>わりないものであります。世間の大部分の人びとは、その日その日を働いて糧<かて>を得ておる次第ですから、なかなか芸術を娯しむ暇などないようでありますが、そういう人たちの間にこそ美を娯しみ、芸術する心の潤<うるお>いを持たしたいものです。私はかつて、ニコヨンの生活をしている人びとが暇々に川柳<せんりゅう>を楽しみ、結構楽しんでおられる様子をラジオの録音放送<ろくおんほうそう>で聞きまして、なんというすばらしいことかと、心から感動させられたことがあります。豊かな生活とはまさにこのような生き方を指<さ>していうのではないでしょうか。たんに物があるだけでは豊かとはいえない、あればあるように、なければないように芸術していかねば、豊かとはいえないと思ったのであります。

 生活の芸術化などと申しても、一片<いっぺん>の詩も作れず、また絵筆<えふで>も持てない身で、なんの芸術化と思っておられる方もありましょうが、私は歌わない詩人、描<えが>かない画家があってもよいと思っております。大自然の姿や調和の美しさ、大自然の奏<かな>でる音楽のすばらしさに共鳴<きょうめい>を覚える人なら、それで立派な詩人であり、画家であり、音楽家であり得ると思っております。心して眺<なが>めますとき、路傍<ろぼう>をいろどる、名も知れぬ雑草のひとつひとつからも、天地の神様の御恵みが感じられ、その姿態<したい>や色合いからいいしれぬ親しさを覚えるのでありまして、じっと見ていると絵は描けなくとも、その色彩<しきさい>はかぎりなく転回<てんかい>し、延長<えんちょう>して頭の中に一枚の描<えが>かぬ絵画が作りあげられていくのです。散歩の道に、あるいは買物の途中に、そうした描かぬ絵を持ち歩ける人はいつも心豊かに、潤いのある生活を娯しむことができるはずです。いずれにしても、芸術する心さえあれば、いつもふれている身近なものの中から、瞬々<しゅんしゅん>に新鮮<しんせん>な、しかも、まだだれも見出さない美を、発見していく喜びを持つことができるでしょう。たえず美に憧<あこが>れ、美を求める人ならば、まず最も近い自分自身の中に美を見出し、それを培<つちか>い育てて自己のものとしていくべきです。それが自己創造<じこそうぞう>であり、芸術する生活でありましょう。またかくれた美は人の中にも、物の中にもいたるところに転<ころ>がっておりますから、それを拾い上げ、地上天国建設に活用していけば、いよいよ天国は豊富<ほうふ>になります。この世は見ようによっては宝の山、美の山でもあります。

 つぎに大切なことは、相手の人の美点を発見することで、これが地上を天国にする一番のコツだと思います。そしてお互が互の美点を尊重し合い、助長<じょちょう>させるところに友愛を生じ、人間の最高の希<ねが>いである崇高な人格美<すうこうじんかくぴ>に達するのではないでしょうか。地上天国は美の人格が寄り集まって築き上げる国土ではないでしょうか。

 明主様が美を好まれることは人一倍強いものがありました。夙<はや>くから美術品を蒐<あつ>められ、できるだけ多くの人に見せて、品性陶冶<ひんせいとうや>に役立たしめようとのご念願から、救世教神苑内に美術館を設<もう>けられたのであってみれば、救世教天国を訪れる人びとに言霊<ことたま>からする御教えのほかに、眼からする教化をはかっていくことが大切と思います。

 宗教は真善美を説き、かつ行なわせるもので、真は大自然の道、すなわち真理であり、真を伴う思惟<しい>、行動は善であります。美は真善の姿であります。ゆえに、美こそは神様のお姿であります。たんに美とだけいえば、形だけの美もあり、また内面の美もあります。しかし、最高の美、あるいは神様の美というからには、内面に真と善とを含んでいなければなりません。

 『天国は美の世界なり』と仰<おお>せられた明主様のお言葉は、まさに真理でありまして、真理の御教えにもとずき、真を知らせていただき、善を思い、行なって美の世界を創造していくことが、私どもに遺託<いたく>された任務<にんむ>でもあります。今後ますます美の門をひらいて、天国招致<てんごくしょうち>の一助としたい覚悟であります。