昭和九年(一九三四年)も押し詰まるにつれて、「大日本観音会」発会の機運はしだいに高まってきた。一一月二五日、大森の松風荘で秋季大祭が開かれたが、その時教祖は、
「昭和一〇年(一九三五年)一月一日を期し、大日本観音会として開教する。」
むねの宣言をしている。
そして、その月の二八日には、応神堂へ幹部六人を招いて会合を開き、「観音会」の規約などを定めたのであった。『日記』にはつぎの歌が記されている。
観音会の規約大方出来にけり簡単なれど整ひてをり
「大日本観音会会則」は一一条から成っている。主要な項目をあげると、
一、本会は大聖観世音菩薩の本願たる大光明世界建設の大業に参加活動するを目的とす。
二、本会は東京市麹町区麹町一丁目七番地一へ仮本部を置く。
三、本会に全長一名、次長二名、顧問数名、理事長一名、理事若干名及び庶務会計を置く。
と定められ、第七条から一一条までは会員についての規定で、
「会月は観音御神体を奉斎するものに限られ、入会金は五〇銭、会費は一人一か月一〇銭以上を本部に納入し、毎月の月次祭、春秋の大祭には必ず参拝のこと(ただし地方信者は月次祭参拝は随意たること)」
などが定められている。
一二月にはいると、都内四支部が次々と新しく発足し、それぞれ教祖を迎えて発会式を開いた。
まず、一二月七日、東京市杉並区阿佐ヶ谷一の七二八、中島一斎方において、阿佐ヶ谷支部が発足している。『日記』には、
中島方観音会支部発会式四、五人連れて夕方ゆけり
と詠まれている。残り三支部の発会、支部長はつぎの通りであった。
一二月一五日 緑支部 東京市本所区緑町四の三二 木原義彦方
一二月二〇日 西ヶ原支部 東京市瀧野川区西ヶ原四八九 松久茂徳方
一二月二六日 世田谷支部 東京市世田谷区三宿町五四 荒屋乙松方
また、一二月二二日には、麹町四丁目に設けられた機関紙編集所において、観音像の奉斎が行なわれた。ここはそれまで新聞配布係の宿舎であったが、新たに「東光社」と名付けられ、編集出版の業務を担当することとなった所である。