北槇町のころ

 「旭ダイヤ」の爆発的な売れゆきによって、それまで使っていた建物はいかにも手狭なものになった。住居と店が一つではなんとしても不便である。できあがりの製品を置く場所もない。出入りの職人の控室もない。そのうえ、母・登里や妻・タカの郷里から上京して、店員になる者も多かったので、その宿舎も確保しなければならない。

 そこで教祖は、店と住居を別にすることにして、南槇町の店にほど近い京橋区大鋸町三番地(現在は中央区京橋一丁目九番)に土地を購入し、家を新築して大正五年(一九一六年)四月に移転したのである。これは広い庭のある、大きな日本家屋で、そのうえ、東京駅からほど近い交通至便な所にあった。東京駅といえば、現在も首都の表玄関として、いわば日本の顔である。現在も、九ノ内側に残っている赤煉瓦の駅の建物のできあがったのが大正三年(一九一四年)であり、大鋸町への移転の少し前のことであった。こうした完成によって、東京駅周辺は、以前にも増して繁栄をみることになったのである。

 住居の移転後間もなく、教祖はまた事業の拡張にともなって、店舗をそれまでの南槇町から、八重洲橋の袂、すなわち現在の東京駅八重洲口の駅前広場に面する、北槇町一番地(現在、中央区八重洲一丁目一番)に進出させたのである。まことに、ここは首都の中心に位置する一等地であった。

 このように、大正四年(一九一五年)以後の岡田商店の躍進ぶりは目覚ましいものがあった。北槇町の新しい店に移ってからも、商いはますます繁盛し、店員や職人の出入りで、店は朝からごったがえしていた。

 教祖は毎晩夜遅くまで、商品のデザインに研究の時間をさいていたので、朝は割合遅く起き、朝食をすませると、大鋸町の自宅から北槇町まで、五分ほどの道を歩いて一〇時ごろには店に着くのであった。

 店にはいると店員が口々に挨拶する。店には出入りの職人の溜り場がある。職人たちはこしらえてきた品物の納入や、新たな注文を受けるために、早朝から二〇人、三〇人と詰めかけている。そこに上がりこんで胡坐をかき、煙管をくわえ二口、三口煙を吸い込み、雁首で煙草盆の縁をポンポンと叩く。そうして世間話に花を咲かせながら、教祖から呼ばれるのを待ち受けているのである。

 教祖の机は奥の一室にある。そこに坐って職人を順番に呼び、持ってきた製品に目を通す。そのうえで、でき具合に応じて値段を付けるのである。注文通りの物ができていれば非常に喜び、値切るようなことはほとんどなく、即座に買い上げる。だが、気に入らなければ何度でも製品を直させる。普通の問屋であれば、品物に少々不満があっても、値を下げれば話がまとまるが、教祖は頑として聞き入れない。そこで当の職人は、教祖の気に入るまで作り直すしかない。たとえ、一つの品物であろうとも、土台をこしらえるところ、それに柄を付けるところなど、職人の分担が決まっていて、物によると三人、四人の人手を経てできあがる。その一人一人に対して、気を抜かず注文をつけるのであるから、おのずからできあがった製品には、教祖の美に対する並々ならぬ気魄と、物を物として真に生かさずにはおかない愛情がこもっていたのである。製品こそは商売の生命である、とする教祖の信念のほどがうかがわれる。

 職人衆は取り引きが許されると、第一段階として、教祖からの指示によって.図案手(今日でいうデザイナー)がデザインした比較的安価な品の図案を見せられ、そのうえで注文をもらうのである。この役には木村があたった。ついで、実績をあげ、腕を認められると、教祖がじきじきにデザインした品物の製作を任される。こうして、教祖から注文を受けることができるようになるのである。この段階には画然〈かくぜん〉とした順序と区別があった。

 教祖は机に向い、朝の一一時ごろから、途中、昼食の休みをはさんで午後の二時か三時ごろまで、特定の来客や職人と応対した。教祖が毎日洋服を着用しているのは別としても、おもな店員が時に洋服を着用するというようなことは、当時の小間物業界ではきわめて稀で、時代の先端を行く印象を与えたことであった。しかも、職人が椅子に腰掛けてかしこまり、持参の品を見せて注文を受ける様子は、この世界では、珍しい光景であったといわれる。教祖は、ときおりパイプを取り、キャッスル(煙草の銘柄)の葉を詰めてスパスパと吹かしながら相手をする。三時になっておやつが出ると、甘いもの好きの教祖は、それをおいしそうにつまみ、また算盤を弾く。ちょっと手が透けば、もう一度キャッスルを取り出してパイプをプカッと吹かす、という具合に、楽しそうに、それでいて少しの時間も無駄にせず、てきぱきと仕事を片付けていった。

 話の合間にも、電話のペルが鳴れば受話器を取り、店員に指図をする、といった忙しさであるが、それでも、たいがい三時ごろまでには区切りをつける。そして、そのあと、新しい図案に工夫を凝らすこともある。ときには新聞に目を通し、そこに載った目ぼしいニュースがあるとかたわらの木村を相手にその話題に花を咲かせる。また、居残った職人と気軽に時事問題を話題にすることもあるといった風であった。

 夕方になると、店で出前を取って、夕食とすることもあり、店員の見送りを受けながら店を出、人力車を拾って、タカや彦一郎などと待ち合わせて、外食をすることもよくあった。そしてよい演物〈だしもの〉があれば、その足で帝劇へ行ったり、また五九郎劇という浅草の喜劇や映画、寄席などを見に行った。

 一方家庭での教祖は、物わかりのよいおだやかな一家の主人であった。このころには身体も丈夫になり、夕食後の散歩は欠かすことのない日課となっていた。家にいるかぎり、それこそ雨の日も雪の日も、京橋、銀座界隈の街並を歩くのが常であった。

 しかし、若い時から悪かった歯が相変わらずの状態であったから、食事のさいには、あらかじめ綿を詰め、食べ終わるとそれを取り除き、鏡に向かって念入りに歯を磨くのであった。 またそのころ、小間物組合の頭取をつとめた銀座の老舗、白牡丹の、主人・松田幸次郎を会長とし、日本橋から銀座界隈の商店の大どころの主人が寄り合って、「双富久会」というものが作られた。毎月二〇円ほどの会費を納め、食事に出かけたり、春と秋の年二度の旅行をする、そんな社交的な集まりであった。教祖はこの一員となり、秋田や京都に旅をした。しかし、気のおけない仲間同士なので、ハメを外す失敗もあったようで、松江に出かけたおりのこと、二日二晩飲み騒ぐうちについ気持ちが大きくなりすぎて、みなの懐中の金を合わせても勘定が足りず、往生したという武勇談も残っている。

 大正七、八年(一九一八、九年)ごろ、教祖は外国製の車を購入し、運転手を雇った。これが隣り近所はおろか兜町界隈でも大変な評判になった。大正のなかばごろ、自家用の自動車を所有していたのはごく限られた人々であった。わが国に明治三四年(一九〇一年)に初めて自動車が輸入されて以来、大正なかばまでに輸入された自動車の総数は、トラックや官庁の車、軍用車を加えても、せいぜい数千台にすぎなかったのである。地方販売部長の森Γはつぎのように語っている。

 「これは贅沢だけで買ったのではなく、取り引きを能率的にするという狙いからだったと思います。そのころ、商いはすべて人力車を使っておりましたが、目の回るような忙しさでしたから、とても追いつきません。そこで能率上、自動車を購入しようということで買ったのです。」

 当時は岡田商店の景気が絶頂を極め、黙っていても金のはいるという時期であったから、自動車の購入はひとつには教祖の強気な心の現われであったともいえよう。また一方で、よいもの、新しいものは積極的にこれを取り入れ、事業をより合理化して発展させようと心がけた精神の現われであったことも見逃せない。