機関紙の刊行

 昭和一〇年(一九三五年)一月、「大日本観音会」が発足して以来、多忙な日を送っていた教祖は、新教団の誕生とともに機関紙として定期の新聞と雑誌を刊行した。東方の光を掲げて光明世界建設のために立ち上がった神命にちなんで、新聞には『東方の光』、雑誌には『光明世界』の名を冠した。

 東光社で編集された『東方の光』紙は一月二三日に、『光明世界』誌は二月四日に、それぞれ発刊された。『東方の光』紙や『光明世界』誌上で、教祖は「大日本観音会」の目的、意義やその活動内容を鮮明にし、さらには文明の誤りを指摘し、鋭い社会時評を投げかける等々、多岐にわたってみずから精力的に筆を執り、編集刊行した。
信者は、この刊行物を信仰向上の拠り所として大いにその研讃に励んだ。教祖は「大日本観音会」の会則の中で、「会員は本会発行の神書、雑誌、会報は、出来得るかぎり購読を為し、心魂を磨き、本会運動の概況を知ることを要す。」と義務付けている。同時に、機関紙は一般人士の目にも触れるように広く配布した。当時、布教の突破口としてこれらの文書活動が大きな役割を担ったのである。
 
「大日本観音会」の発会式の参拝者は一五〇名ほどであった。しかし、新教団としてスタートした当初、教祖のもとにあって熱心に信仰生活を送っていた信者はというと、数十名であったと想像される。これらの人々が開教とともに教祖の手足となり、機関紙をもって教線拡大に向かう種火<たねび>をともし、「観音会」の普及、宣伝にこれ努めたのである。昭和一〇年(一九三五年)二月五日の『日記』に、

  東方の光今日より戸別売りする事となり夕暮出でけり

としたためており、機関紙の発刊とともに、教祖がその配布に大きな力を入れたことがうかがわれる。

 機関紙の編集責任を任せられた清水清太郎は、
 「たしか東方の光は三〇〇〇部、光明世界は二〇〇部ぐらい印刷された。」
と語っている。教祖は本部、東光杜及び五つの支部に「大日本観音会」観音宣伝隊を組織し、積極的な配布を試みたのである。宣伝隊はおもに青年男女をもって結成され、東京を中心に横浜、大宮など近隣の諸都市まで家々を戸別訪問して、頒布、布教に努めた。すでに記したように、阿佐ヶ谷支部長・中島一斎、世田谷支部長・荒屋乙松が、当時の布教の手段は、新聞配布一本であり、配布で得た収入が唯一のもので、そのわずかな売り上げの一部で生活していたと述懐しているように、専従者は新聞配布に生活をかけ、教祖の神業に献身的な働きをしていたのである。

 東光社は機関紙の編集所であると同時に、男子新聞隊の宿舎でもあり、専任宣伝隊員が常宿していた。昭和一〇年(一九三五年)五月には都内数か所にさらに新しい拠点が設けられ、連日新聞配布が行なわれたのであった。

 また、このような教団機関紙の発刊とともに、それまで続けていた和歌と笑冠句の文芸活動「松風会」「笑和会」も、新教団誕生の中で一新し、装<よそお>いも新たに「紫苑会」と改められて活動することになった。

  紫苑会第一回の歌冠句開きぬ会者五十七名

と教祖の昭和一〇年(一九三五年)一月一六日の『日記』に記録されている。紫苑会第一回の賞品とされた冠句帳の巻名には、東方の光を掲げて新しく出発した教団にふさわしく、「待期のメシヤ」という題が付けられている。

 文芸雑誌『紫苑』は二月一一日創刊、続いて四月、七月にそれぞれ二号、三号が刊行されたが、教線の拡大とともに多忙をきわめ、ついにこの方は廃刊<はいかん>せざるを得なくなった。
 しかし文芸活動はその後も続き、『紫苑』誌廃刊後は、『東方の光』紙の文芸欄に吸収され、「東光文芸」として発表されたのである。

 一方、光の弾丸として大いに頒布した『東方の光』紙は九号まで続き、一〇号において『観音の光』と改題されたが、一一年(一九三六年)四月一一日を最後に廃刊となった。

 また、『光明世界』誌も第五号まで不定期ながら続刊され、『東方の光』紙と同様に一一年(一九三六年)一月二五日をもって廃刊となった。

 『観音の光』と『光明世界』が廃刊になったのは、昭和一〇年(一九三五年)の暮れごろから特高刑事がしばしばたずねてくるなど、官憲の直接的な干渉が始まり、一一年(一九三六年)にはいると「大日本観音会」を解散させようとする動きが活発化して、文書活動をはじめとする宗教活動を続けることが困難になったためである。