昭和二三年(一九四八年)の『信仰雉話』の発刊後間もなく、月刊雑誌と週刊新聞(後に旬刊に改める)が発行された。これらはともに、「日本観音教団」として出発するにあたって、その機関紙として発刊したものである。月刊雑誌は『地上天国』の名称で二三年(一九四八年)の一二月に創刊された。一号から三号までの表紙は、東郷青児(一八九七年~一九七八年)の描いた彩色の観音像であった。東郷は戦前、立体派、あるいは超現実派の手法をヨーロッパから日本に紹介して注目された画家で、第二次世界大戦後は二科会を再建した洋画界の実力者であった。しかも晩年には、「世界救世教」がブラジルとの文化的交流を図るために設立した日伯美術連盟の創設と発展に活躍し、昭和四八年(一九七三年)には同連盟の初代会長に就任した。
教祖は元読売新聞の記者であった、小坂嘉一郎と金近靖の二人を中心に光新聞社を創設し、昭和二四年(一九四九年)三月、『栄光』紙の前身である『光』紙を発刊した。光新聞社は東京都港区に本社を置き、熱海の東山にも事務所を置いて活動を始めた。細かな実務は二人に任せたが、教祖自身も編集長、記者、さらに校正者として仕事に携<たずさ>わったのである。したがってみずから「教え」を論文形式で『光』新聞のみならず、月一度『地上天国』誌にも執筆するほか、「明麿」という雅号で和歌の発表を続けた。そのうえ、信者からの投稿、お蔭話にいたるまで必ず目を通し、編集の指示をしたのである。一〇か月ほどを経たころ、小坂が、
「教祖はじつに精力的に執筆を続けられ、われわれは毎号追っかけられるように編集しているが、私の経験からいうと、そろそろ息切れするころだ。うまくいっても五〇号止まりだろう。」と言った。小坂がそう思うのも無理はなかった。ところがその言葉が教祖の耳にはいったのであろう。
「息切れどころか、原稿が余って因っているくらいだ。」
と言って昭和二九年(一九五四年)春の浄化にはいるまで、毎号欠かさずに論文の寄稿が続いたのである。