神様は人類全部がわが子でありますから、信仰する、しないにかかわらず、全部を救おうとしておられます。ですから、遠からずみんな救われることになるのですが、わかったものから早く改心<かいしん>して、わからないものの手を引いていかなければならないのです。神様の気持のわからないものは、放<ほ>っておくというのではなく、どんなものでも片っ端<ぱし>から神様のお声を聞かせ、お心をわからせていくことが、信者としてのつとめであろうと思います。
いまはあれこれと選んでいる必要はありません。すべてを救われる神様の大悲願<だいひがん>に帰って、目を開いていかねばならないのです。ですから、清きものだけが集まって天国を造るのではなく、汚<けが>れ多い人ほど神様がお救いになるとすらいえるのです。真宗<しんしゆう>でよく申しますことばに、「善人は救われる。まして悪人をや」とありますが、この神様のお気持を肚<はら>のどん底へ入れて、活動させていただかねばならないと思います。救いやすいところからお救いするのも結構ですが、また、難物<なんぶつ>であればあるほど、なんとかしてお救いさせていただこうと努力することによって、それにうち克<か>つ力が、自然に神様の方から流れてくるのであります。本教の信者は必<かなら>ずその場その場で、相手より一厘<いちりん>だけ多い力を、神様が与えてくださいますから、絶対に負けることはありません。そういう、ありがたい絶対力の神様を背負<せお>っているのですから、まだまだ、われわれの働く余地<よち>はあると思います。
それで、悠長<ゆうちよう>な働きをしていたために、とうとう導<みちび>けなかったというようなことでは、救世教の面目丸<めんもくまる>つぶれであります。それでは、なんのために早くから教団に入れていただき、浄霊を授かっているのかわからなくなります。型、練習<れんしゆう>の時代はもうすんだのであります。これからは、ほんとうに捨身<すずみ>になって、お救いに専心<せんしん>させていただかねば申しわけがないのです。自分たちはもうさんざん働いてきたのだから、このうえは譲<ゆず>るべき人に譲って、少しゆっくりいたしましょう、というようなことは、信仰の世界では許されません。子供は子供、大人<おとな>は大人なりに生命<いのち>のあるかぎり、御用に仕えていくということでなければ、もう間にあわないのであります。