歌集

 数多くの論文とともに、教祖はまた、その生涯に約五五〇〇首の和歌を詠んでいる。その中には叙景歌あり、叙情歌あり、教えを詠んだものありと、その範囲はすこぶる多岐にわたっている。これらの歌には祭典のおりに、「讃歌」として奉唱されたものもあり、苦難の時代の胸中を吐露したもの、また、一個の人間として、心中に生起した喜びや悲しみ、憤りや願いなど、喜怒哀楽を率直に詠んだものも数多く見られるのである。

 この意味において、短歌形式で表現された和歌は、信仰向上のよすがであると同時に、教祖のありのままの姿を生き生きと伝えるものでもある。

 「日本観音教団」として、正式な宗教活動が行なわれるようになると、教祖は礼拝のさい奉唱する『讃歌集』(昭和二三年七月発行)を刊行した。その巻頭においてつぎのように述べている。

 「和歌なるものは不思議な力を有<も>ってゐる。千言万語によっても言ひ表わせない意味も僅か三十一文字で現はし得る。しか>もその人を動かす力に至っては予想外なるものがある。それ等<ら>によって私は時折浮んだ感想や道歌や神歌等の中から自選集録したのがこの著である。私は歌人ではないから、あまり頭を捻らないで、あるがままを自然に詠んだものが多いのである。但だ意を用いた点は判り易い事、品位を保つ事、言霊の実に意を注いだ事等である。」

 この言葉は、教祖が和歌を実際に作っただけでなく、優れた和歌論を展開したものとして注目されるものである。

 昭和二四年(一九四九年)一一月三〇日には、『明麿近詠集』という歌集が発刊された。これには昭和一一年(一九三六年)の元旦から、二四年(一九四九年)九月までの間に詠んだ歌四八六首が収められ、立教以来の教祖の心境が率直に詠まれている。

 また、昭和二四年(一九四九年)一二月二三日には、歌集『山と水』が刊行された。(改訂版は昭和四二年・一九六七年八月一日発行)この歌集は、昭和六年(一九三一年)から、立教した年の昭和一〇年(一九三五年)にかけての五年間、教祖が信者と共に文芸運動を楽しみ、また各地を旅行し、現地で歌会を開いたりして詠んだ歌千数百首の中から、教祖みずから選んで編んだものである。

 なお、この歌集『山と水』の中で、

風ふけば葛の広葉の飜へりをりをりみゆるむらさきの花

と詠じた歌は、昭和五五年(一九八〇年)、講談社から発刊された『昭和萬葉集』巻二に収録されている。

 昭和一〇年(一九三五年)、「大日本観音会」が発会して間もないころ、日々の神業が忙しく、祭典時に奉唱する讃歌の用意ができなかったので、その日の祭典直前に作ったことがあった。その時、教祖は来客と応対しながら、一方でラジオを聞きつつ、十数首の歌をたちまち詠んだのであった。係の者は驚くというよりも、不思議の感に耐えなかったという。 このような超人的な作歌ぶりは、晩年においても同様であった。歌を作るのは、論文の口述と同様、たいてい真夜中の一二時過ぎであった。

 昭和二四年(一九四九年)の暮れに詠み、『地上天国』誌一三号に発表された、「大浄化」と題する四六首の歌は、わずか一時間たらずで作られたものであった。その中の三首をつぎにあげてみる。

 今年はもただならぬ世となりぬらむただありやかに言えぬが悲し

 長き代を積りつもりし塵芥浄めて生るる地上天国

 如何ならむ世や来つるとて大神の護りある身のなど恐れめや

 その時、筆録を担当した井上茂登吉はつぎのように回想している。
 「月に二、三首しか作らぬ歌人もあるそうですが、明主様は、ご讃歌でも、道歌でも、叙情、叙景、相聞歌と、どんな歌でも、苦心して作るということはなく、楽しむように口述になりました。
 『詠もうと思えば、いくらでも詠めるよ。』
とおっしゃって、歌数も、作歌の早さも、まったく自由なのには驚嘆いたしました。

 この『大浄化』の時、私はおそばで筆記させていただきましたが、あたかも、蚕の口から糸が切れずに出てくるように、お歌があとからあとからと続いたのでした平均すると一首、一分三秒にあたります。」