宗教篇 観世音菩薩

 前項までに、観世音についての因縁を、色々な面から説いて来たが、そうなられるまでの根本と言えば全く素戔嗚尊の暴圧が原因であった事は、既に述べた通りである。ところが伊都能売神去り給いし後の日本は、どうなったかというと、その弟神であったのが、かの天照天皇であって、この天皇は惜しくも、何の理由もなくにわかに崩御され給うたので、止むなくその皇后を立てて、御位に即かせられたのが彼の女性である天照皇后であった。今も尚天照大御神が日の神でありながら女神として祀られているのは、そういう訳なのである。又以前私はかいた事があるが、素尊は日本の統治権を得んとして余りに焦り、目的の為に手段をえらばず式で、力の政治を行った結果、人心は紊れ、収拾すべからざるに至ったので、ここに父君である伊邪那岐尊<いざなぎのみこと>の御勘気に触れ、厳しく叱られるの止むなき事になった。というのは素尊は、本来朝鮮系統の神でもあったからである。しかもその後悔悟の情なく、依然たる有様なので、最後の手段として日本を追放される事になったのである。この時の事を『古事記』にはこう出ている。

 『素戔嗚尊の素行や悪政に対し、伊邪那岐尊の御とがめを蒙り、神遣にやらわれた』
 とあり、その行先は黄泉の国であるが、黄泉の国には母神である伊邪那美尊がおわすので、罪の赦されるまで母神の許にいて、しばらくの間謹慎すべく思って、出発の前、天に在す姉神天照大御神にいとまごいをせんとしたのである。この事を『古事記』にはこうかいてある。

『素盞鳴尊はたちまち山川どよもし、天に昇らんとしたところ、それを知った天照大神は大いに驚き、さては弟素尊は、自分を攻めに来たのではないかと疑心暗鬼を抱いていたところへ、素尊は天にのぼり、天照大神に面会されたところ、どうも姉神の様子が普通でないので、これを見てとった素尊は、姉神は私を疑われているようであるが、自分の肚はなんらの邪念はない。この通り潔白であるから、今そのあかしを御眼にかけると言い、素尊は剣を抜き天の真奈井の水にそそぐや、たちまち三女神(みはしらのひめがみ)が生れた。

 すなわち市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、瑞津姫命(たぎつひめのみこと)、田霧姫命(たぎりひめのみこと)である。すると天照大神は、では自分の清い心も見せようと申され、胸に掛けた曲玉を外し、同じく水に注ぎ揺らがしたところ五男神(いつはしらのひこがみ)が生れた。
すなわち天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、天穂日命(あめのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野樟日命(くまぬのくすひのみこと)である。』

 もちろんこれは比喩であって、実際はその時、素尊は三人の息女、天照大神は五人の重臣を呼んだのである。というのはこの時両神は、右の五男三女を証人として、一の誓約(うけい)をされようとしたからで、その誓約とは近江の琵琶湖一名志賀ノ湖、又右の天の美奈井もそうであって、この湖水を中心として、東の方を天照大神、西の方を素盞鳴尊が統治するという約束をしたのである。つまり今日で言う平和条約である。これによってともかく一時小康を得たが、その後素尊は相変らず謹慎の色が見えないので、ここに本当の追放となったのである。この時の事を八洲河原の誓約と言われているが、今日でも琵琶湖の東岸に八州河原という村があるのは、この地点であったのであろう。

 ここで昔から、人口によく知れている竜宮の乙姫という女神の事をかかねばならないが、これについては、少しさかのぼってかく必要がある。それは伊邪那岐、伊邪那美尊から生れた五柱の男女の兄弟がある。すなわち長男は伊都能売天皇、次男が天照天皇、三男が神素盞鳴尊尊、長女が椎姫君命、二女が初椎姫命である。そこで伊邪那岐尊は、最初伊都能売尊に日本を統治させついで天照天皇次で天照皇后の順序にされたのであるが、素盞鳴尊尊には最初から朝鮮を統治させたのである。そうして素尊の妻神とされたのが、もちろん朝鮮で出生された姫神であって、この姫神が弟の妻神となった、言わば弟姫であるから、これをつめて音(乙)姫と呼ばれたのであるが、昔から乙米姫とも言われたが、これは未婚の時に朝鮮名の中に、米の字が入っていたからであろう。

 右のごとく、弟姫すなわち音姫は、夫神が流浪の旅に上られたので、それからは孤独の生活となったのはもちろんで、間もなく故郷の朝鮮へ帰り、壮麗な城廓を築き、宮殿内に多くの侍女をはべらせ、空閨を守っていたのである。ところがその頃信州地方の生れである太郎なる若者が、漁が好きなので、常に北陸辺りの海岸から海へ出ていた。するとある時大嵐に遭い、かろうじて朝鮮海岸に漂着して救われたが、当時としては日本人も珍しがられていた事とて、ついに男禁制の王城内にまで招ぜらるるに至ったのも無理はない。ところが当時女王格である音姫様は、寂蓼<せきりょう>に堪えなかったからでもあろうが、とにかく御目通りを許されたところ、太郎という若者が、世にも稀なる美貌の持主であったから堪らない。一目見るより恋慕の情堪えやらず、ついに何かの名目で、城内に滞在させる事となった。

 その様な訳で、太郎に対する愛情は益々熱烈を加え、日夜離さず御傍にはべらせるという訳で、この事がいつか人民の耳に入り、ようやく非難の声やかましくなったので、ここに絶ち難き愛着を絶つ事となり、素暗しい宝物を箱におさめ、土産物として太郎に遣り帰国さした。これがかの有名な玉手箱である。又これを開けると白髪になるなどという伝説は、誰かの作り事であろうし、又浦島という姓は、朝鮮は日本の裏になっているからで、後世の作者がそういう姓を付けたのであろう。

 そうして音姫が朝鮮の女王格であった時代は、日本もシナも圧倒されてしまい、インド以東は朝鮮の勢力範囲といってもいい位であった。もちろんそれは素戔嗚尊が、一時飛ぶ鳥も落す程の勢いであったからでもあり、その上音姫という女神は男勝りの女傑であったからでもある。ちょうどその頃インドの経綸を終えた観自在菩薩は、帰国しようとして南支方面にまで来たところ、まだ日本は危険の空気をはらんでいる事が分ったので、しばらくその地に滞在する事となったので、その時からが観世音の御名となったのである。という訳はつまりインド滞在中は、自在天の世を客観していたので観自在といい、今度は音姫の世を静観する事となったので、観世音と名付けられたのである。すなわち観世音を逆に読めば、音姫の世を観るという意味になる。そうしておいて菩薩は、南シナ地方民に教を垂れ給うたところ、何しろ徳高き菩薩の事とて、四隣の民草は親を慕うがごとく追々寄り集う有様で、この時から観音信仰はついにシナ全土にまで行き渡ったのである。ところが御年も重ね給い、これまでで経綸もほぼ成し遂げられた事とて、ついにこの土地で終焉され給うたのである。そうして今日といえどもシナ全土すなわち満州、蒙古、チベット辺に到るまで観音信仰のみは、依然として衰えを見せないのは深い理由のある事であって、これもおいおい説くが、ここで遺憾な事は、南支地方に観音の遺跡がありそうなものだが、全然無いのは、全くその地方が幾度となく、兵火に見舞われ、地上にあるあらゆるものが消滅した結果でまた止むを得ないのである。

「文明の創造(未発表)」 昭和27年01月01日

文明の創造(未発表)