神様の世界では、だれの手柄<てがら>ということはないのでして、みんながよくなることが個人個人の喜びであります。喜びは分けあうものですから、これは自分の手柄、これは自分のした仕事だ、などと思っている間はまだだめなのです。神様は適材適所<てきざいてきしよ>に、その人を道具<どうぐ>としてお使いになるのですから、みな使われて御用をさせていただけるのだ、という気持になるのが、ほんとうの信仰者です。ですから、自分の手柄というものはありません。これは挙<あ>げて神様のお手柄とすべきものなのです。道具は道具として一生懸命<いつしようけんめい>に働かせていただけば、それで人間の使命は果たせるのです。あとは神様がご褒美<ほうび>をくださるのです。そして、幸福者になれるのです。この“いただく”という気持が大切です。そういう無私<むし>の精神<せいしん>になって働くものは、神様と直通<ちよくつう>して、神様のお光がどんどん内流し、どんなことでもできるようになるのです。信仰に入った以上は、早くそういう境地に至っていただきたいと乞<こ>い願うわけであります。