神第一の生活

 神第一の生活とか、神に通う生活とか申しますのは、なにもお祭を一生懸命やるとか、神に手をあわせて祈るとかいう形式だけの意味ではなく、人間としてなすべき仕事、たとえば教師は教師、信者は信者、政治家は政治家、学生は学生、家庭の主婦は主婦というように、みな立場々々によって自分のもち前がありますから、その職域<しよくいき>を通じて、これは神さまからあたえられている仕事であるという気持をもって、誠心誠意<せいしんせいい>そのことにあたっていくことなのであります。かような気持で、ものごとに処<しょ>していけば、たとえ卑近<ひきん>な仕事でありましても、真理はあらゆるものの中にあるのですから、その人はその人なりに真理がさとらせていただけ、実のある生活が送れるものです。他人<ひと>のお蔭話や経験談をきくことは、自分がおこなうための参考にはなりますが、ほんとうに自分のものになり、血肉となるのは、みずから行なって得たものだけです。ですから、信仰でも結局自分が信仰し、みずからが奉仕生活をしなかったならば、その信仰は理論の上の信仰で、真<しん>の信仰とはいえないのです。

「栄光  四六三号」