浄霊の活用

 〃本教の浄霊はたんなる病気なおしではない、祈りである〃と、一時私はさかんに申しましたため、浄霊はもうしなくてもいいんだとか、熱心にやる必要はないというふうに一部ではとりちがえられたようですが、けっしてそうではありません。浄霊は地上天国建設につながる大切な宝であることを再認識していただくために、病気はなおるが病気なおしではないと強調したまでで、われわれはこの浄霊を手段といたしまして、どこまでも地上天国を建設していかねばならない重大任務があるのでありますから、やはり浄雲は本数にとって欠くことのできぬ特色なのであります。また人間の体なるものは、いちがいにいやしいものでも、つまらぬものでもないのでありまして、人間がその内容である霊性を無視して、肉体だけを尊重するというのならば、肉体はたんなる肉塊そのものにすぎないのでありましょうが、実際にいって純肉体は存在しな小のであります。肉体は人間という精霊体の宿として存在しておるので、それは神さまが地上生成化育のご神業を遊ばすうえに必要な、生きた道具としての肉体なのだということがわかりました以上、人間の肉体というものは、じつに有意義な貴重なものであって、もっとも大切に取扱わねばならぬものなのであります。人間の肉体なしにはいかに全智全能の押さまといえど、地上でのお働きはとうていおできにならないのでありますから、かような意味において人間の肉体は精神と同様に、できるだけ損傷けぬよう摂生し、健康で生き長らえ、すこしでも多く物心両面から神さまのご用に奉仕することが望ましく、それでこそ人生の本分をつくすことができ、神の恩寵をえて真の幸福者たりうるものです。したがって病気なおしが低俗だとか、いやしい仕事だとかおもうのは間違いで、立派な仕事をさしていただくのだと、よりいっそう誇りと熱意をもって浄霊奉仕をしていただきたいものです。ただし浄霊が口すぎのようになって、真の信仰へのお導きを忘れたらそれは邪道であります。浄霊によって悩みを救われ、ありがたいとおもったら、だんだんと神さまのご用に役だつ生活がなければなりません。古事記の中にも、伊邪那美尊さま(体系の祖神)が黄泉の国に赴かれ、永らく黄泉へぐいを遊ばしたため、たいへんにお気持が荒まれた結果、あるとき、天神伊邪那岐尊さま(霊系の祖神)に向って申されるには「自分は日に千人を殺してみせる」と言あげなさいました。すると伊邪那岐尊さまは「よろしい、あなたが日毎に千人ずつ殺されるのならば、私はそれに対抗して、日毎に千五百人の産舎をたててみせましょう」とおっしゃって、結局、体主霊従より霊主体従の力がまさることを宣言されたのでありますが、もしも悪思想の跋扈によって、千人魂が失われるならば、精神界の神にめざめた看たちが善の思想を喚びおこし、千五百人の信仰者を生んでいけば、この世はかならず善神の大理想に到達するにちがいないのでありまして、悪の仕組は九分九厘、善の仕組は十全と定まっておる以上、善を志し、善を行うかぎり、すこしもおそれることはありません。真理の神を外にして真の安心立命はありえないとおもうものです。

 いま申したように、われわれは浄霊を真の信仰への手段として活用し、無神思想のあやまりを匡し、真の文明を建設していかなければならない使命を担わせられているのですから、まことに生甲斐ある人生を、生きることができるこのうえなき幸福者ともいえましょう。

「栄光  四四二号」