この新宿の治療所では、のちに總斎の補佐をして教団のために尽くした多くの信徒を生み出した。これらの信徒はのちに専従となり、ある者は教団本部の総長や幹部になったり、ある者は地方の教会長となったりして、布教の第一線で活躍することになる。しかしこの時は、みな病気で苦しむ傷ついた一人の信徒に過ぎなかった。總斎は、これらの病人を自らの浄霊で癒したり、あるいは明主様に取り次ぐことによって、明主様に仕える多くの専従者を生み出していったのである。總斎にとって、これは明主様の御用を行なっていただけのことにすぎず、總斎自身がただ信徒を増やそうと思っていたわけではない。總斎の誠に徹した御用の結果が、多くの人びとを導いたのであった。
總斎は多くの専従者を育成したが、その第一号としては、林光夫(本名芳夫、明治三十年長野県生まれ)がいる。林は總斎が解脱会に入会していた頃に出会い、その導きによって明主様の浄霊を受けた。もともと若い頃からカリエスを患っていたため、さまざまな治療を試みたのだがほとんど効果がなかった。しかし、これまでとはまったく違う、明主様の浄霊によって、持病となっていたカリエスが完治したのである。感激した林は直ちに入信した。昭和十四年の初めのことであった。この時、林は明主様から「おひかり」を授けられたが、以後神奈川県下をはじめ郷里の長野、さらに新潟、山形、静岡等に大小三十余りの布教所、出張所を開設することになった。しかし、昭和二十一年五月に急に発病、月末に帰幽している。
長い間眼病で悩んでいた百海聖一(本名政一、明治二十七年東京生まれ)が總斎の治療所を訪ねたのは、もともと自分が丈夫だと思っていたところ、医者から手術を勧められたからであった。百海はその後、宝山荘に明主様を訪ね「おひかり」をいただくことになる。特別講習にも参加し、熱心に明主様の「夜昼転換」や「霊主体従」「浄化作用」の教え等を学んだ百海は、明主様の教えこそ絶対の真理であると確信し、ますます熱心に治療所に通い、總斎に従ってしばしば宝山荘に明主様を訪ねるようになった。百海は總斎が主催した明主様とのご旅行にも随行を許されている。
やがて總斎の勧めもあり昭和十七年に専従となった。明主様が宝山荘から箱根に移られたので總斎は、そのあとに宝山荘に入ることになったが、總斎自身は布教のため地方出張が多かったので、百海が宝山荘の留守を預かった時期もあった。
岩松栄(明治三十九年千葉県生まれ)は、かねてから交際のあった林光夫の結介で總斎と面談することになった。岩松の妻が喘息で悩んでおり、また本人が長年胃を病んでいたからである。彼の病気はすぐに快方に向かい完治した。昭和十四年のことである。ところが同年、長女が右大腿部のカリエスと診断され、脚のつけ根から切断されるのが嫌なら即刻入院して絶対安静にせよ、と医師から宣告を受けた。岩松はさっそく總斎に相談したところ、翌日、宝山荘の明主様を訪ねることができた。岩松の長女を診た明主様は、こともなげにすぐ治してあげると言われる。信じられない岩松であったが、明主様はものの二分ほどで治療を終えられてしまった。そして、もう治ったので来なくてよい、とまで言われるのだ。事実、歩けないので抱えてきたわが子が、帰りの電車の中では元気に動きまわっているではないか。岩松はこの後、總斎や林から再三受講を勧められ、また教祖のご旅行に随行させていただいたりして、結果として専従することになる。
これらの人びとは新宿・角筈時代の總斎の導きによって入信し、總斎の紹介によって明主様と出会い、明主様から直接「おひかり」をいただいたのである。この後、總斎は明主様の代わりに講習を行なうことを許されるようになり、總斎から「おひかり」をいただく信徒たちがたくさん生まれてくるのである。