玉川へ引越しされてからのことですが、玉川署ににらまれ、いろいろなことがありましたが、これにはちょっとおかしな話があります。
玉川へ来ましたが、この屋敷は広大でありますので、署長さんが敬意を表する意味で、ある朝早く訪ねて来られました。当時の明主様はずいぶん朝寝坊でありましたから、お寝みになっておられました。そこで玄関子がいいかげんに、まだお寝みになっているとか、なんとか、すげない挨拶ですましてしまいました。
それで署長さんは、せっかく、越して来たから自分の方から出向いて行ったのに、そういう扱いをしたのはけしからん、というのが原因で大分にらまれたのです。
もちろん、そればかりが原因ではありませんが、いろいろなことがありまして、大分玉川では事件が起こりました。
そして昭和十二年には、宗教と療術行為の両立が許されなくなり、やむなく療術で立たれることになりました。奇蹟の療術として日増しに人が来るようになり、十五年の終わりごろは最も隆盛をきわめ、助手も先生もおられましたが、日に百人を越えるので昼食を摂られない日も多く、大変な霊肉の重労働でありました。
明主様には、日々目に見えてご疲労の色が濃く、私は内心心配でなりませんでしたところへ、ある日の夕方、富士見亭に帰られて、お猪口に一杯のお酒を召上がるか、召上がらないうちに顔面蒼白となられ、脳貧血を起こされました。
これはいけない、こんな忙しくてはなんとかしなくてはと思っておりますと、幸か不幸か、突如療術行為を停められそうな形勢になりましたので、そうなればむしろ先手を打ってこちらから廃業しようと、廃業届を出されましたところ、玉川署ではさすがに意外な面持でしたが、受理されたわけであります。
これは大きな転換期でもあり、全くご健康の上からいっても、また、新規発展のまたとない転換の好機であって、ひとえに神意によるものと思いましたが、一方経済的には少なからず打撃でした。
もともと玉川の屋敷は、借金で手に入れたものですし、その上、売り主の方が、五島さんとも契約を結ばれたようなことから問題が起こり、結局、供託金を積んで長い訴訟となりまして、これがご昇天少し前まで続いたわけです。
むろん私ども奥さん同志は、会合などで親しくしているのですが、ご主人方はどちらも強情では引けをとらない方ですから、果てしなく争いは続くところだったのでしょうが、みなさまもご存じの、あの美しい仁清の「藤の壷」が登場いたしまして、和解の仲立ちとなることになって、長い訴訟は解消し、美しい暖かい友情をとり交わすことになりまして、まもなく〝立つ鳥あとを濁さず″で明主様はご昇天になりました。
話は戻りますが、玉川で廃業後は専ら治療師の養成と百幅会をつくられ、観音様のお姿を描かれていましたが、午前中で仕事を終えられますと、たいてい午後からは散歩に出られました。ご一緒に玉川沿いの武蔵野の風情を訪ね、きょうは西、あすは東というふうに歩き廻りました。そして散歩のあいだにも未来の建設について語られました。
全く明るい未来にばかり面を向けておられる明主様には、暗いところは毛筋ほどもありませんでした。そのくせ現実的には悩み苦しみがないわけでもないのに、いやなことはひと口も触れられなかったことは、全く天人だったと思います。とかく愚痴が出たり、過越苦労のひとつも言いたいのが凡人の常でございますのに、明主様は全く違っておられ、天国人であられたので、この点、われわれは見習わねばならないと思います。