この論文は、目下執筆中の『結核信仰療法』中の一項目であるが、これは一般の人達に非常に参考になると思うから、特に掲載したのである。
医療誤点の種々相
医療は毒素を固めて体外へ出さない方法であり、浄霊はその反対に溶かして体外へ排除させる方法である事は、充分判ったであろうが、何しろ人間は今日まで医学を信じ切っている以上、右の理屈が仮に分ったとしても、頭脳の切換えは仲々容易ではないと思うので、尚色々の面から解剖のメスを入れてみよう。そうして今日流行している彼の気胸療法であるが、これも肺の外部にある膜と膜との間に空気を入れ、肺を圧迫して活動を弱らせ、呼吸を微弱にする。それによって肺の内部にある毒素の浄化は停止されるから、それだけ解熱し、咳も痰も減って治るように見えるので、言わば肺臓だけの局部安静法である。この様に医療は固める事を原則としている以上医学の進歩とは固める方法の進歩でしかない事は、余りにも明白である。何よりも安静中少しでも運動をするとすなわち熱発するが、これは幾分でも浄化がおこるからで、医師は慌てて戒めるのは、毒結溶解を極度に恐れる為である。
次に結核の特効薬であるが、これも同じ道理で、近年次から次へと新しい薬が出来るのは、残らず人体を弱らせ、固める効果を狙ったものであるから、よく効く薬というのは、副作用を紙一重というところまで起さないようにして毒を出来るだけ強めたものである。以上によってみる時、現在の結核療法の原理は別段治病上の進歩ではなく、単なる固め方法の進歩にしかすぎないのである。かの造りつけの人形か生ける屍となって、何年でも寝たきりにさせているのは、自然に固まるのを待つのである。しかもその為多額の費用を要し、仕事も出来ず感染の心配さえあるとしたら、全く可哀想なものである。
滑稽なのは大気安静療法である。寒風膚<はだ>をさす冬の夜、窓を開ッ放しにしてジット寝ているその有様を見ては、馬鹿らしさに言葉はないのである。これでは健康者でさえ我慢出来ない程であろうに、衰弱し切って骨と皮ばかりになっている上に、多少の悪寒もあるのだから、全く悲惨そのものである。それでも治るならまだしもだが、その様にしてまでも悪くなって、結局ほとんど死ぬのであろう。これも良い空気を吸わせんが為であろうが、実際からいって空気の善悪は、我々の経験上余り影響はない。何となれば浄霊で治す場合、都会の悪い空気の中にあっても、治り方に異いはないからである。第一空気に関係がありとすれば、農村に結核は少ない筈だが、近来は都会と余り異らないとは、医学でも唱えているところである。その外こういう事もある。以前はサナトリウム等で日光療法を勧めたものだが、近頃は悪いとしてやめてしまった。これなども日光に当れば新陳代謝が旺盛となり、浄化が発りやすいからである。要するに現在の結核療法(これは他の病気もそうだが)の根本的誤りは、病毒をかためることを建前としている点で、これに目醒めない限り、真の病理は立てられないのである。
次に感冒について今少し言いたい事がある。最初にもかいた通り、まず風邪を引くや早速医者にかかるか、そうでなければアスピリン、葛根湯<かっこんとう>などの売薬類を服<の>むか、御手製の玉子酒、蜜柑の黒焼などを服んで蒲団を被り、出来るだけ汗を掻くようにする。懐都合のいい人は、姑息<こそく>な療法は危険として、掛りつけの医者に行くが、何しろ現代医学は風邪の原因すら分っていないのだから、患者の安心のいくようハッキリ言ってくれない。極力安静を勧める位なものなので心細くなり、もしかすると肺炎にでもなるのじゃないかとビクビクもので、一日中体温計と首ッ引きである。
ところが度々かいた通り、風邪位結構なものはない。身体のどこかに溜っている毒の掃除であるから、熱で溶けた痰や、水ッパナ、汗などが出るだけ出ればそれで治ってしまい、サッパリとし健康は増すのだから、早くいえばロバで体内の掃除が出来るようなものである。ちょうど入浴は外部の清潔法であるに対し、風邪は内部の清潔法と思えばいい。つまり皮膚に溜った垢を落すと同様、体内に溜った垢を落すのである。もちろん皮膚は手で洗えるが、腹の中はそうはゆかないから、自然は風邪という体内入浴法で洗ってくれるのだから、何と造物主は巧く造ってくれたものではあるまいか。全く風邪様々である。だから人間は出来るだけ風邪を引くのが天理に適<かな>っており、それによって体内は清まり、健康は増進するとしたら、健康法の第一は風邪を引く事である。しかもこれで健康になった人は真の健康者であるから、結核など絶対感染する憂はないのである。
右のごとく自然療法によって治せば毒が減るから、風邪引く度に軽く済むようになり、遂には全く引かなくなる。こうなってこそ通勤者や通学者も、いかなる階級の人も無病息災年中無休で働かれ、日々愉快に仕事が出来、家族一同も病気の心配がなくなるから、家庭の集合体が社会であるとしたら、社会全体天国化するのは必然である。
しかし医療によっても病気の治る事があるから、その説明をしてみるが、医療で治る理由は二つある。一は再三かいた通り、薬剤その他の方法を以て毒素を極力固め、浄化が停止される結果治ったようにみえるが、真の全快ではないから、いずれは必ず浄化発生する。しかそこの事を知らないから、世人は医療で治るものと思うのである。今一つは医療で毒素を固めようとしても、浄化力旺盛な人は、仲々固まらないで、自然に少しずつ排除され、ある程度減る為治る場合であって、これは真の治り方であるから再発はないが、こういう人は滅多にない。ところが最初から医療を受けず、自然に放っておけば浄化は順調に行われ、一層早く治るのである。
この意味を今一層徹底してみるとこういう事になる。それは病気の苦痛のあるだけは、浄化が行われている以上、毒は減りつつある訳で結構なのである。しかし人間の苦痛は我慢出来ないから、一時でも楽になろうとして、薬毒を用いるのである。これはちょうど借金を返えすのは辛いから、延期するようなものである。としたら日の経つに従い利子が溜って、借金の苦しみは増え、厳しい請求となるが、又々延期をするが、次は一層激しい請求となるから、いよいよ苦しくなると同じように、医療で延期すればする程、殺々悪化するのである。ではどうすればいいかというと、最初の時に苦痛を我慢する事である。そうすれば苦痛は一時的で病原が減る以上、左程長く続くものではない。急性病なら先ず二、三日で済むものである。その他の方法としては本教浄霊によるより外ない事はさきにかいた通りである。
又結核の間接的原因としての肋間神経痛であるが、この原因は意外なところにある。それは首から上の病気でよく手術をするが、この際使用する消毒薬の為が最も多いのである。しかるに医療は消毒薬は殺菌に不可欠のものとして必ず用いるが、この薬毒こそ実に恐るべきもので、この毒分は非常に強烈で、しかも筋肉から直接滲透し、量も多いと共に、それが下降して肋骨部に固結し、尚下降して下半身に及び、種々の病原となるが、この毒性は執拗で、治るにも長期間を要するのである。従ってこの消毒薬の害が判っただけでも、いかに多くの人が救われるかを私は常に思うのである。
次に医学の原理であるが、医学には原理がないと言ったら何人も驚くであろうが、それは何よりも真に病原が分っているとしたら、動物実験の必要はない訳で、何を好んでモルモットや二十日鼠など多数の殺生をしなければならないかで、これこそ全く原理が分っていないからである。彼の駆黴<くばい>薬六百六号にしろ、この薬は六百六回の実験を経て、ようやく完成したというのであるから、推<お>して知るべきである。これだけにみても原理不明をよく物語っている。すなわち今日の医学は全く原理ならざるものを原理と錯覚しているにすぎないのである。
元来病気なるものは、人体に現われたる現象であって、実体ではないので、この区別が医学では分っていないのである。従って病気の種類が多いという事は、現われる部分が多いからで、その部分部分の異いさによって病名が付せられているだけの事で、病原は一つなのである。というように医学は病気の種類によって、病理もいよいよ異うように思い、治療手段を工夫したので、これが一大欠陥である。故に進歩したといっても、右のごとく根本には全然触れていず、外部的症状のみを対象としている以上、治らないのは当然である。
私がこれを唱える証左として、本教の治療であって、いかなる病気でも浄霊一本で素暗しい成績を挙げているにみても分るごとく、現代医学は全く幼稚極まるものであって、医学で唱える病理というのは、実は機械的推理以外には出ていないのである。何よりも根本原理が分っているとすれば、その原理通りに治療を行いさえすれば、必ず治る筈であるから、動物実験などの必要はない訳である。以上によって私は全世界の医学者に希望するのは、まずこの点に気づく事である。それが分れば既成医学は揚棄せざるを得なくなり、ここに医学の再出発となって、真の医学が生れるであろう。でなければこのままでは今後何年経っても、真の病理発見など痴人の夢でしかない事を断言するのである。
(自観)