祈りの重要性

 信仰生活者にとって祈りほど大切なものはなく、いっさいの行動も祈りの想念から出発するのでなければ、神第一をもって信条とする信仰者とは言えません。まずなにをするにも祈りからということが宗教者に課せられた仕事であり、世界を救う根本行でもあると信じます。しかし祈りはおこなうために祈るのであって、祈りだけに終ってはなんにもなりません。

 信仰の極致は、神と人との一体化にあります。そこまでいけば聖人君子、大天使として寝転んでおっても、その人は神とひとつの境地にありますから、思うこと為すことすべて神のみ心に叶うておりますから、心配ありませんが、そこまで達しない普通人は、やはりたえず祈り、反省して神さまと真均りあい、神から守られていくことが大切です。行住坐臥祈りとともにある人の行為は、たんなる形のうえの行為でなく、神界からお導きいただいて かならず実っていくものであります。それに引替え祈りのない行為は、仇花のようなもので実らないのであります。おなじ仕事をするにしても心のこもらぬ仕事とこもった仕事では、結果において大変相違があるのであります。まして大神さまに守られてする仕事においてをやであります。人間は誰しも本能から希求したり、恐怖したりいたします。内心にあるもっとも切実なものを祈りとして現わすのは、人間の心理からいっても当然であります。このように祈りとは人間の本能から迸りでるものであって、けっして人から強要されたり、義務づけたりすべき性質のものではありません。どうしても祈らずにはいられないから祈るのでありまして、現在すべての人間が自分達の生命が危険にさらされているのだとしりましたならば、誰しも偉大なものにお鎚りして、助かりたいと祈らずにはいられないはずです。その本能的な祈りの心を私どもは信仰として導き、抽きだしてあげればよいのです。人間の強いのは神への信仰があるからです。女は弱いが母として強いのは子を愛する母性愛のゆえであります。信仰強き人はかならず熱心な祈りをともなうものであり、信仰が弱ければ祈りもまた弱々しく、さらに信仰を失えば祈ることすら忘れた外形のみの人間になってしまうでしょう。いまの人びとにもっとも欠けているのは祈りだと思います。私がいつも「初心に帰れ」と申しますのも、結局は「祈りの心を忘れるな」という一事に帰するのであります。私どもは明主さまから地上天国建設の手段として浄霊という素晴しいお宝を授かっておりますが、これは浄霊の行為が祈りをこめるのにもっとも適ったものとして、われわれにお与えくださったものであります。ですから浄霊を人に施すと同時に、これによっ、て自分自身も浄められ、双方一緒にご神徳をいただけるようにできているのでありますから、浄霊をしてやったという思いあがったことは、いかなる場合も成り立ちません。どこまでも神さまからさしていただくものとして、取次ぐ教師のがわも当然神さまに感謝すべきでありましょう。

 とにかく「求めよ、さらば与えられん」とありますように、万有を創り給うた神さまである以上、人間がいま大きな危険にさらされている状態を、そのまま打棄てておかれるはずはありません。人間が神をなきもの同様にあつかい、平等の神のみ子に差別をつけておった高慢な鼻を、いまこそヘシ折るときがきたのであります。まず人間は造り主であられる神さまの前にひざまずき、過去の非礼を陳謝し、革めて誠の愛と叡智を授かり、新しい時代に応じたことをさしていただくのが一等であります。

 人間は小さな思いあがりをすてて、宇宙時代に目ざめ、被造物である人間の小ささを謙虚になって悟り、神から与えられた世界平和の使命を果すため、まず祈るべきでありましょぅ。地上天国運設の行事に、いかなる邪魔や困難がありましょうとも、どこまでも神の愛とお守りを信じて、いかなる苦難にも屈せず、誠を貫いていけば、やがてはかならず最後の栄冠を与え給うのであります。祈りこそ心の悪魔に打ちかつ絶対力であり、人間の宝であります。祈りと実践によって人生は自由に変えうるのであります。もちろん、人それぞれに生まれながら定まった宿命ということはありますが、この宿命に縛られて、希望を失い、努力しなかったならば、その人は平凡な人であります。明主さまからも宿命と運命の相違について、ご垂示いただいているように、運命は人間の努力によって開拓することができるのですから、この理を悟って、つねに新しい境地をひらいていく人こそ非凡というべきで、生きた信仰にある私どもは、過去のなにものにも縛られず、新しくのぞみ、新しくおこなっていきたいものです。

「栄光  四三九号」