陰から陽に向かって

 明主様は、明治十五年十二月二十三日にお生まれになられましたが、その日は冬至の翌日で、俗に畳の目一つずつ日が延びていくと言われておりますように、陰から陽に向かうという、そういうお日柄にお生まれになったということは、やはり世の中に光を掲げるためにご出生下さったということがよく判るのであります。

 ご自身もそれを悟られまして、敢然と職業を擲って、信仰生活におはいり下さいましたのは、昭和三年、明主様四十八オのことでしたが、使命はその時に決まったのではなくて、すでにお生まれの日に決まっておったのであります。

 明主様は、観音様のお膝元、東京は浅草の橋場 ―― 〝橋場、今戸の朝けぶり″などと唄にもあります粋な橋場で弧々の声をあげられたのですが、ご出生当時、お母さまの酉子さんはお乳が思うように出なかったとかで、近所にある蓮窓寺というお寺の奥さんからお乳を分けてもらって、やっと育って来られたということでした。

 終戦後、久しぶりでその辺りを明主様と訪ねてみましたが、お寺は現在もありましたが、戦災後のこととて大変荒れており、その近所にあったという昔の家の跡は、探してもとうとう分りませんでしたが、小さな家が並んでいるその辺りは、昔も今もたいした変わりはなさそうに見えておりました。

 明主様の家は、代々武蔵屋の暖簾で質屋を営まれて、曾祖父さんの代までは相当栄えた家だったらしいのです。

 聞くところによりますと、この曾祖父さんは、よほど明主様に似た顔形、性格をもっておられたようで、よく明主様は、『自分には曾祖父さんがついておられると申されたことを憶えています。

 しかし、その後すっかり家産が傾き、明主様ご生誕の当時は、なかなかの窮迫だったようです。