前項までにおいて個々の病気に対し概略解説したが、それ以外のあらゆる病気については類推すれば大体は分かるはずである。本来病気なるものは一定型的ではなく、万人が万人面貌の異なるがごとくことごとく多少は異るものである。例えば肺患といえども結核あり壊疽<えそ>あり気腫あり浸潤あり肺炎あり、又単に結核にしても各人それぞれその症状経過も同じではない。もちろんその理由としては体質、性格、環境、治療法の種類、過程、薬用の多寡等にもよるからである。以上のごとくであるから、治療の上においても、診査の場合病原探求が主要条件で、いわゆる急所を衝く事である。急所を外れる場合、施術をいかに努力するも効果は薄い訳である。しからば病原発見はいかにすればいいかというに、それは主として叡智と経験とであり、これ等の条件を練磨するには熱意と時日を要する事はもちろんで、そうする事によって漸次技能の向上が得らるるのである。
そうして本医術修得後一年位技能を練磨した者と、数十年間西洋医学を研鑽したる者とを比較する場合、その診断も技術も問題にならぬほどの差異を認めるのである。何となれば有数なる病院又は有名なる博士等によって不治と見做されたものが、本療法によってしかも一、二年の経験者によって全治せるもの日々無数にのぼる現状であるからである。一言にして言えば、治る医術と治らない医術というも過言ではない。又今一つ言うべき事がある。それは本医術は新聞雑誌その他印刷物等によって決して宣伝しない事である。その訳は宣伝の必要がないからである。例えば患者があらゆる療法によって治癒せず、煩悶懊悩<はんもんおんのう>の際たまたま本医術を知って治療を受け全治又は生命を救われた場合、感激と共に自己と同様の病患に苦しむものを看過出来ないからである。したがってこれ等の人に対し自己の体験を語る場合その言葉には力と生命がある。百の新聞雑誌の宣伝よりも一人のその言葉は効果百パーセントであろう。又病気全治者は本医術修得の意欲を起す事は当然であるから大抵は受講者となるのである。かような順序によって本医術は今や非常な速度をよって日に月に発展拡充しつつある。したがってその帰結としていずれの日かは既存医学の没落となる事は火を睹るよりも明らかである。もちろん真実ならざるものの辿るべき当然の運命でしかあるまい。その後に来るものそれは実に人類の理想たる病無き世界の実現である。