附記

 明主岡田茂吉略年表

○明治一五年(一八八二)一歳。十二月二十三日、東京都台東区浅草橋場町に生る。父は喜三郎、母はトリ。曽祖父は武蔵屋喜左衛門という。

○明治二二年(一八八九)八歳。橋場町の西、浅草千束町に転居。

〇明治二八年(一八九五)一四歳。小学校を卒業。画家を志し、美術学校に入学したが、眼病のため半年で退学。小学校を卒業した頃、日本橋区浪花町に移り、後に京橋区築地町へ、さらに京橋区大鋸町に転居。

○明治三○─三四年(一八九七─一九〇一)一六─二〇歳。十六歳頃肋膜炎にかかり、大学病院施療科に入院、半年で治癒。一ケ年後の十七歳に再発、次第に悪化して十八歳におよぶ。十九歳には肺結核となったが、菜食療法によって全治。

○明治三八年(一九〇五)二四歳。五月十日、父死亡。結核後の数年間は一切をなげうって健康の快復につとめ、漸く体力に自信をもつようになる。
 
〇明治三九年(一九〇六)二五歳。この年結婚、父の遺産三千五百円を元手にして、日本橋区西仲通に小間物屋光琳堂を開業。半年ぐらいで、繁雑な仕事のために、重症な脳貧血にかかる。灸療法と散歩により二、三ケ月で全快。
 
○明治四〇─四一年(一九〇七─八)二六─二七歳。商売は非常に繁昌したが、前途を考えて、東京駅東側、八重洲通北槇町に問屋を開業、順調に発展する。
 
○明治四五年(一九一二)三一歳。五月二十五日、母死亡。
(明治四〇─一年に問屋をはじめてから資産をつくった大正五年頃までの十年間、年に数回ぐらいづついろいろな病気にかかる。重症なチフスで三ケ月入院、痔出血で一ケ月入院、そのほか胃病、リョウマチ、尿道炎、何回もの扁桃腺炎、神経衰弱、頭痛、猛烈な腸カタル、また歯痛、心臓弁膜症など。ひどい歯痛を、うがいで治し、その時はじめて、薬の恐しさ、薬毒ということを知る。)

○大正五年(一九二六)三五歳。問屋をはじめて十年間で、十五万円の資産をつくる。新聞経営を思いたち、その資金をうるために、いろいろな仕事に手をだす。株式仲買店に対しての高利の金融、日本橋蠣殻町の倉庫銀行の信用をえて手形と小切手の割引などをする。世界十ケ国の専売特許をうけて旭ダイヤ(人造ダイヤ)を売りだし、好評を博して三越と特約するほどとなる。のちに、旭ダイヤにからむ東京の小売商組合、三越との争いがあり、また工場を経営させていた者からは告訴をされたりする。

○大正八年(一九一九)三八歳。春、倉庫銀行が突如、支払停止となり、その影響をうけて苦境に陥る。さらに妻の死にあって、内憂外患、種々の宗教をあさりはじめる。倉庫銀行の破産によつて高利貸連中から差押えの手段をとられるとともに、詐欺の告訴により検事局によびだされた揚句、借金と縁を結ぶ。(この時から二十二年間、昭和十六年まで借金を支払う苦闘がつづく)再婚の話まとまり、夏、太田良子と結婚。○大正九年(一九二〇)三九歳。二月、岡田商店を資本金二百万円の株式会社にするが、三月十五日、パニック襲来がはじまつてひとたまりもなく転落。夏、大本教に入信。十年、十一年、十二年は社運挽回に大努力をし、信仰熱は一時冷却。○大正一○年(一九二一)四〇歳。登山熱あがり、関東附近の主な山をはじめ日本アルプスの槍ケ嶽に登る。また奥日光から塩原へ、あるいは湯西川<ゆにしがわ>温泉に赴く。○大正一一年(一九二二)四一歳。大事変を予感し、京橋大鋸町の自宅を人に護り、大森八景坂に移転。

○大正一二年(一九二三)四二歳。九月一日の関東大震災により京橋の店舗も商品も烏有に帰し、貸倒れも莫大な額に上り、もはや再起不能となる。

○大正一三年(一九二四)四三歳。再び大本教に入り、神霊の研究に没頭。ある時、地図製作者の某に霊眼が開け、右の方に等身大の観音様がみえるといわれる。

○昭和元年(一九二六)四五歳。信仰をふかめるため、大本教のお筆先を熟読。神霊の有無、神と人との関係信仰の妙諦などの研究に没頭し、神の実在、しかも自分の中に内在するとの確信をえる。十二月から約三ケ月、神懸りとなり、日本創生記を綴る。

○昭和三年(一九二八)四七歳。二月四日、節分の日、神示により使命をさとり、営業は支配人に任せ、全心全霊を信仰生活にうちこむ。

○昭和四年(一九二九)四八歳。五月頃、大森八景園の住居の上空に、大暴風雨と霊鳴がおこり、その時から観音菩薩の守護神である金竜神が守護神となる。

○昭和六年(一九三一)五〇歳。六月十四日、神示により房州鋸山の日本寺に随行者三十人とともに参詣。六月十五日から、霊界においては昼夜の転換がはじまる。

○昭和八年(一九三三)五二歳。事業に失敗して破産状態になっていたが、人から大黒様を貰ってから裕福になりはじめたので、以後大黒様を集め祭るようになる。十二月二十三日、大森の自宅に信徒が集り、はじめて誕生祝をする。

○昭和九年(一九三四)五三歳。五月一日、麹町区平河町に家を借り、応神堂と名づけて信仰的指圧療法の治療所を開業。九月十五日、大本教を脱退。麹町半蔵門の大本教分所を治療所に利用し、大森から出張治療する。十月十一日、某の撮影した写真像の中に千手観音の姿がみえ、霊写真の奇蹟に驚く。今一枚の霊写真には金竜神があらわれる。十一月二十三日、新しい宗教団体の発会式を、応神堂において行う。この年「岡田式神霊指圧療法」刊行。

○昭和一〇年(一九三五)五四歳。一月元旦、半蔵門の出張所で「大日本観音教会」の、正式の発会式をあげる。玉川上野毛に土地三千坪、建坪二百数十坪の売家をみつけ、秋移転、「大日本観音教会本部」とする。この年、「観音運動」、機関誌「光明世界」、「東方の光」、文芸雑誌「紫苑」刊行。

○昭和一一年(一九三六)五五歳。八月四日、埼玉県大宮警察署から呼びだされる。ついで玉川署に引致、留置される。この時、療術行為を禁止され、忽ち収入の途絶える。

○昭和一二年(一九三七)五六歳。宗教と療術行為の両方はやれないというので、経済上、宗教をすてて、療術のみでたつことになり、十月二十日に許可をえる。この年「岡田式療病術講義録」(筆記)がある。

○昭和一五年(一九四〇)五九歳。十一月の下旬、玉川署に召喚される。医療妨害を理由に医師法違反に問われ、営業停止になりそうなので三十日、廃業を申しでる。数日後、「療術行為は生涯やらない」という誓約書を書かされる。十二月一日から治療を廃業。(これから十九年春まで治療をやめて主として治療師養成に専念)十二月二十三日、五十九歳の誕生祝を日本閣において行う。

○昭和一六年(一九四一)六〇歳。顕官・実業家の要望により、療術行為の届出をなして、やむをえない人だけ治療することにする。神示により五月、丹波の元伊勢神宮に参拝。六月二十二日、鹿島・香取の二神宮に参拝。この日、独ソ戦が開始される。七月一日、伊勢山田の皇太神宮に参拝、それより長良川に鵜飼をみて、長良川ホテルに泊る。八月、日光東照宮、戦場ケ原を経て川治温泉を通り、湯西川温泉にいたる。十月、草津温泉に赴く。十一月善光寺・江の島弁天様に参詣して神示をうける。十二月八日、大東亜戦争勃発。十二月二十三日、丸の内の中央亭において誕生祝を行う。

○昭和一七年(一九四三)六一歳。主な教会十ケ所に達す。この頃は書画に親しみ「光明」の文字などを揮毫したり、観音像を多く描く。またよき家庭人として生活。この年、「明日の医術」刊行、発禁となる。

○昭和一八年(一九四三)六三歳。信徒にも疎開の注意をあたえる。「結核問題の解決策」「結核の正体」刊行、発禁となる。

○昭和一九年(一九四四)六三歳。戦争の激化で、爆撃の悲惨事を予想し、五月箱根強羅の藤山雷太氏の別荘を購入して移転。(神山荘)七月、山下亀三郎氏の熱海の別荘を購入し、九月に移転。(東山荘)

○昭和二〇年(一九四五)六四歳。八月十五日、終戦により日本は本当の正しい国になる時期がきたと考える

○昭和二一年(一九四六)六五歳。八月、箱根強羅の観山亭成る。

○昭和二二年(一九四七)六六歳。二月五日「天国の福音」刊行。八月三十日、新憲法に「信教の自由」が認められ、宗教法人「日本観音教団」を創立。

○昭和二三年(一九四八)六七歳。九月二六日「讃歌集」刊行。十月三十日、宗教法人「日本五六七<みろく>教会」創立。十二月一日、機関誌「地上天国」創刊。教団創立後、一年半で信徒の数、十万余となる。

○昭和二四年(一九四九)六八歳。二月十日、「信仰雑話」を刊行。三月八日、機関誌「光」を創刊。終戦後、三年にして、信徒の数、三十万に達す。六月二十五日、「結核の神霊療法」、七月一日「無肥料栽培法」、八月二十五日、「霊界叢談」刊行。八月二十五日の夜、金塊ダイヤ隠匿という無根の疑いにより、箱根強羅の別院に家宅捜索をうける。八月三十日、「自観随談」、十月五日、「奇蹟物語」、十月二十五日、「基仏と観音教」、
十一月三十日、「明磨近詠集」、十二月二十三日、「山と水」、十二月三十日、「光への道」を刊行。

○昭和二五年(一九五〇)六九歳。一月二十五日、「讃歌集」(攻編)、一月三十日、「自観説話集」刊行。二月四日、「日本観音教団」と「日本五六七<みろく>教会」を解消して、宗教法人「世界救世<メシヤ>教」を創立。「光」紙を「救世」と改題。教祖の称号「大先生」を「明主」と改称。四月三十日、熱海大火、救世教仮本部は類焼をまぬかれる。仮本部を咲見町に移す。四月二十日、「神示の健康法」刊行。五月八日、贈賄嫌疑、建築法違反(無断増築・改造)で熱海メシヤ教関係の建物六ヶ所と小田原の建物一ケ所の家宅捜索をうける。五月二十九日、清水の警察署に連行され、取調べをうける。六月十五日静岡刑務所に移され、六月十九日出所。七月十二日、事件は一段落。八月、教団の機構を改革、教主の地位を引退し、新たに管長制を採用。八月二十三日、「救世」を「栄光」と改題して再刊。九月二十一日、救世教はじめての秋季大祭と、神仙郷完成祝祭を挙行、「地上天国出来るまで」を刊行。十月十五日、静岡地方裁判所で第一回公判。十月三十日、「法難手記」、十一月二十日、「救世教早わかり」刊行。十二月、美術館敷地設定にとりかかる。十二月二十三日、浄霊法かわる。

○昭和二六年(一九五一)七〇歳。二月十五日、「自然農法解説」、一月三十日、「笑いの泉」、五月二十日、「教えの光」刊行。五月二十二日、日比谷公会堂で講演。五月二十八日、「讃歌集」(改編)刊行。五月二十九日、関西を巡遊し、元中京別院で講話。三十日、法然院で講話。三十一日、元羽衣別院で講話。三十、三十一日は住友美術館、桂離宮、苔寺、竜安寺、法然院、修学院、釈迦堂、大徳寺、野村別邸、京都博物館、西本願寺、自鶴美術館を参観。六月十五日、箱根の日光殿増築落成祝賀式典を挙行。八月、美術館の敷地完成。八月五日、「新しい暴力」、八月十日、「或る日の公判スケッチ」、八月十五日、「結核の革命的療法」刊行。十月、美術館の建設準備にとりかかる。十月二十八日、関西を巡遊し、東福寺、大徳寺、京都博物館を参観。

○昭和二七年(一九五二)七一歳。四月三十日、奈良国立博物館を参観。法隆寺の夢殿で、救世観音がのりうつる。京都の地上天国候補地を視察。六月十五日、箱根美術館開館式を兼ね、神仙郷落成の祭典を挙行。強羅ホテルでブレーデン博士と対談。二十二日神山荘でパリマッチ誌主筆レモン・カルティユ氏夫妻と対談。六月三十日、七月一日、美術館の完成に際し、各界の名士を招待。八月二十四日、薬師寺管長の橋本凝胤師が来訪。九月、パリ・セルニスキー博物館副館長マトレーヌ・ダヴィッド女史一行が来訪し、美術館を参観。十月十八日、京都に赴き、嵯峨の広沢池畔の土地と春秋庵、池畔亭を入手。十二月一日、「結核の信仰的療法」刊行。四日、世界紅卍会幹部が来訪。十二月二十三日、生誕祭。二十四日、最終公判がおこなわれる。

○昭和二八年(一九五三)七二歳。一月一日、「アメリカを救う」刊行。二十八日、報知新聞社長の竹内四郎氏来訪。二月十一日、ハワイに教会をつくるため、樋口喜代子、安食<あじき>晴彦両氏が羽田から空路出発。三月、自然農法普及会結成。四月八日、京都の嵯峨に赴く。二十六日、法政大学文学部長、美術評論家の谷川徹三氏来訪。五月五日、「自然農法解説」刊行。五月二十五日、箱根美術館別館落成。六月十五日、箱根の地上天国完成、祝賀記念祭を挙行。八月七日、東京イブニングニューズに箱根美術館の記事を掲載。十六日、ロスアンゼルスに支部を創設。二十五日、医学博士(七名)、新聞記者(三名)が来訪、浄霊による治癒者を検討。九月十日、「世界救世教奇蹟集」刊行。十月十六日、熱海メシヤ会館の上棟式。十一月三日、シカゴ・トリエーピン婦人記者、ウェイグル・シモンズ夫人が来訪、箱根美術館と熱海の地上天国を参観。十一月二十四日、NHK外国放送主任の夫人と、日本タイムス記者エリス・グリリ夫人が来訪。

○昭和二九年(一九五四)七三歳。前年の大凶作により、農村救済の段階となる。ここに一月二十七日、農業特集号を百万部発行。二月十四日、ハワイ教会の落成式を挙行。翌十五日、その記事がハワイ報知新聞に掲載される。三月一日から麻生鋭氏の「光は大地に」(メシヤ教物語)が静岡民報に掲載される。(三ケ月連載後、単行本として刊行)三月二十五日、「御神書(宗教篇)」発刊。四月十二日、関西を巡遊。四月九日から十八日まで、浮世絵肉筆名作展を、東京日本橋の三越百貨店で開催。六月十五日、メシヤ降誕祭の仮祝典にのぞむ。九月一日から箱根神仙郷に移る。九月十日、「教修要綱」、九月二十日、「天国の福音書」刊行。十二月十日水晶殿完成を記念して、遷座式が行われる。十二月二十三日、熱海のメシヤ会館で、七十三歳の誕生祭を挙行。

○昭和三〇年(一九五五)七四歳。二月十日、午後三時三十三分に熱海の碧雲荘で昇天。二月十七日、熱海のメシヤ会館で昇天祭を執行、箱根強羅の墓所に葬り、墓前祭を執行。
 明主岡田茂吉著作目録

○昭和九年 「岡田式神霊指庄療法」刊
○昭和一〇年 「観音運動」、日本観音教団の機関誌「光明世界」(月刊)、「東方の光」(旬刊、後に随時発行)、文芸誌「紫苑」(二冊印刷、あとは謄写刷)刊
○昭和一二年 「岡田式療病術講義録」(筆録)
○昭和一七年 「明日の医術」刊
○昭和一八年 「結核問題の解決策」 「結核の正体」刊
○昭和二二年二月 「天国の福音」刊
○昭和二三年九月 「讃歌集」刊
○昭和二三年一二月 機関誌「地上天国」創刊
○昭和二四年二月 「信仰雑話」刊
○昭和二四年三月 機関誌「光」創刊
○昭和二四年六月 「結核の神霊療法」刊
○昭和二四年七月 「無肥料栽培法」刊
○昭和二四年八月 「霊界叢談」、「自観随談」刊
○昭和二四年一〇月 「奇蹟物語」、「基仏と観音教」刊
○昭和二四年一一月 「明麿近詠集」刊
○昭和二四年一二月 「山と水」、「光への道」刊
○昭和二五年一月 「讃歌集」(改編)、「自観説話集」刊
○昭和二五年二月 「光」紙を「救世」と改題
○昭和二五年四月 「神示の健康法」刊
○昭和二五年八月 「救世」紙を「栄光」と改題
○昭和二五年九月 「地上天国出来るまで」刊
○昭和二五年一○月 「法難手記」刊
○昭和二五年一一月 「救世教早わかり」(出版部編)刊
○昭和二六年一月 「自然農法解説」、「笑いの泉」刊
○昭和二六年五月 「教えの光」、「讃歌集」(改編)刊
○昭和二六年八月 「新しい暴力」、「或る日の公判スケッチ」、「結核の革命的療法」刊
○昭和二七年一二月 「結核の信仰的療法」刊
○昭和二八年一月 「アメリカを救う」刊
○昭和二八年五月 「自然農法解説」刊
○昭和二八年九月 「世界救世数奇蹟集」刊
○昭和二九年三月 「御神書(宗教篇)」 (教務部編〕刊
○昭和二九年九月 「教修要綱」(出版部編)、「天国の福音書」刊
○昭和三〇年二月 「浄霊法講座?(結核・喘息・心臓関係の症状について)」刊
○昭和三○年四月 「浄霊法講座?(薬毒病について)」、「浄霊法講座?(婦人病)」刊
○昭和三○年五月 「浄霊法講座?(胃・腹疾患)」、「浄霊法講座?」、「浄霊法講座?」、「浄霊法講座?」「浄霊法講座?(薬理批判)」、「御神書(芸術篇)」、「御神書(社会篇)」、(教務部編)、二代教主「御講話録」(第一集)刊