法難

 先に述べたことでも明らかなように、「世界救世教」に対するいわれなき世俗の疑いは、その頃強大となりつつあったマスコミの影響によって増すばかりであった。それは昭和二十五年五月八日に起こった法難事件で頂点に達したのである。

 その日、朝早くから警察当局が教団の施設七ヵ所を、贈賄容疑、建築法違反(無許可増築・改造)の疑いで家宅捜索を行なった。しかし表向きの捜索目的とは異なって、実のところは、これまで「世界救世教」に対していわれてきたさまざまな疑惑を解明することにあった。また進駐軍が発見できなかったとされた、隠匿貴金属の捜索も当然含まれていた。

 もちろん最初からそのようなものは存在するはずがなく、検察の失態で終わるはずの事件であった。しかし、検察は初期から明主様の側近奉仕者であった井上茂登吉と金子久平を逮捕し厳しく取り調べて、虚偽の自白をさせようとしたのである。井上は財産隠匿のために銀行員に対する贈賄を行なった嫌疑、金子に対しては農地購入の際の地目変更に便宜を図ってもらうために、熱海市の農地委員に贈賄を行なったという嫌疑であった。

 当初から検察の目的は明主様を逮捕することにあった。二人の供述によって明主様逮捕を実現したい検察は、この二人に対して実に巧妙な取り調べを行なった。しかし、自分たちは犠牲となっても明主様を死守したいと考えていた二人は、自分たちの贈賄容疑を認めることが明主様を守護することになると、取調官から思い込まされ、ついにはありもしない容疑を認めてしまったのである。結局これが検察に明主様逮捕の口実を与えることになった。 昭和二十五年五月二十九日の未明、ついに明主様に逮捕・勾留の手が及んだ。明主様に対する取り調べはたいへん厳しかった。この間のことに関しては明主様自ら『法難手記』に明らかにして、この事件の真実と逮捕・勾留中のことを記しておられる。特にあまりにもひどい尋問に対して、明主様が、
「これは頭脳の拷問だ」 
 と、叫ばれた話は有名である。

 しかし、この逮捕・勾留中の六月十五日に、明主様は神人合一の自覚を持たれたのである。明主様のご神格がこれにより、また一段上がった。すなわち、主神と明宝様との関係が分かちがたいものとなり、主神と明主様が一体化されたのである。法難によって明主様はいわれのない屈辱を受けられたのだが、一方で私たちは、このように、獄中において明主様のご神格が上がったという、神の経綸の不思議さを教えられるのである。

 さて、明主様は六月十九日に勾留を解かれたが、明主様と入れ替わりに、今度は總斎が逮捕・勾留されるという事態になった。總斎は先にも触れたように、前年昭和二十四年暮れから脳溢血のため静養を続けており、とても取り調べに耐えられるものではなかった。このような重病人を逮捕し長期間勾留するという、まさに非道な検察に、明主様も先の『法難手記』において怒りを露わにしておられる。

 この事件は、教団にさまざまな影響を残した。戦後急成長を続けてきた教勢は、急激に停滞をすることになった。またこの事件によって組織そのものも大きく変わっていくのである。