この世の中に於て人間が最も厭〈いと〉うのは悲劇であろう。悲劇を全然なくする事は不可能であるが、ある程度軽減する事は敢えて難事ではない。それについてはまず悲劇なるものの正体を検討してみよう。
事実、悲劇なるもののその原因のほとんどが病患からである事は厳然たる事実である。なるほど病気以外、恋愛問題、物質欲等から生まれる不正行為等もあるが、これ等もよく検討する時、精神的病患からである事を知るのである。健全なる精神は健全なる肉体に宿るといわれているが、全く真理である。私が長年の研究の成果からみれば、恋愛も不道徳も不正者も短気も大酒癖も怠惰も不良少年も、必ずと言いたい程肉体的に必ず病的欠陥のある事を発見するのである。とはいうものの現代までの医学やその他の方法によっても病患を全治し、霊肉共に健康体になすべき確実なる方法は見当らないのである。たとえその原因は発見し得たところに解決すべき方法がなかった。今日迄病原の発見、治療法の確立を完成し得たと誇称するものも現われるには現われたが、実は一時的効果を挙げるに過ぎず、いつしか消えてしまう事は、余りにも多かったのである。全く黄昏れて径遠しの感なくんば非ずである。本紙のおかげ話中、幾多の実例にある如く難症重症が解決され、その喜びと感謝に溢るる心情は涙なくしては読まれない程のものである。
以上の如き病患や不幸の解決はいわゆる見えざる力の発現によるのであって、神霊の力のいかに偉大であるかは体験者でなくては知り得ない処である。一切万事現実とそうして実証的でなければ納得も得られない現代人であるとすれば、いかに巧妙なる理論を説き、教えの道を勧めるといえども、現実的効果を見ない限り、結局は空念仏に過ぎない事になり、普〈あまね〉く人類を救い、社会の福祉を増進する事は夢でしかないであろう。
見えざる力が見ゆるものを動かすそのカこそ、真の信仰の本質である。本教によって現に行われつつある処のものはこれであって、この意味に於て私は力の宗教というのが本当ではないかと思う。そうして既成宗教のほとんどはその名の如く教えが根本であるから、外部から内面の魂へ向って覚醒を促そうとするのである。然るに本教団によって行う処の浄霊法はイキナリ内面の魂に霊光を放射し、一挙に魂を覚醒させるのである。いわゆる無為にして化する訳で、説教の如きは第二義的のものとするのである。釈尊は即心即仏〈そくしんそくぶつ〉といい、覚者たれば菩薩であるといったが、まことにその通りである。本教団における入信者は頗る短期間で等覚を得、正覚に達し、自己の悲劇を顧慮する必要がないばかりか、進んで他人の悲劇を滅消すべき有資格者となるのである。
〔r天国の礎〉より 昭和二四年(一九四九年)六月一一日〕