花への愛

 若いころ、芸術家を志した教祖は、後に宗教の道にはいり、最終的には画家や蒔絵師にならなかったものの、その後も大いに芸術を好み、また美しいものを生涯愛好してやまなかった。中でも、身近な美としてもっとも愛したのは花である。

 小さな家に住んだ時でも、庭に花を作ったりしたが、広い敷地の宝山荘へ移ってからは、本格的に花作りを始めた。こうして四季おりおりの花が栽培されるようになって、いよいよ花は教祖の生活から切り離せないものとなった。

 暇があれば庭を歩き、木や花の手入れを日課とした教祖は、花鋏を片手に、無駄枝を払ったり、形よく仕上がるように刈り込んだりするのであった。

 花卉の栽培ばかりでなく、花瓶や籠に庭の草木を生けるようになったのも、この宝山荘時代からである。そしてこのことは、以来、晩年まで二〇年近くも続いた。その間に、生けた花は大変な数にのぼる。その体験をもとに、花を生ける心構えについて、教祖はつぎのように言っている。

 「私は花に対して決して無理をせず、出来るだけ自然のままに活けるので、生々として長持ちがする。……余りいじると死んでしまうから面白くない。そこでいつも活ける場合、先ず狙いをつけておいて、スッと切ってスッと指すと実にいい。」

 教祖は一瓶の花を生けるのに二、三分、長くても五分とはかからなかったし、十数瓶の花器全部生けるのもたいてい三〇分前後であった。このいわゆる、早生けは教祖の得意としたところで、

 「もたもたしていると花は死んでしまう。死んだ花ではもう生け花ではない。」

とよく語ったものであった。

 花を生ける場合、普通は使う花材の水揚げのよしあしを気にするものだが、教祖はそういうことはいっこうに問題にせず、季節のものはなんでも花材とした。これについて、

 「花と話をして、その花の心をいけてやることだ。花の心をいけてやらなければ、花は喜ばない。喜ばないからすぐ萎れてしまうのである。一般の人は、花の性を無視して技術的にこしらえすぎるから、花は嫌うのである。」

と書いている。

 このように花の心を心として生けるからであろうか、教祖の生けた花は、通常の倍以上も長くもつので、見る人がよく驚いた。水揚げがむずかしいためか、竹や紅葉は一般に花材としてあまり用いないが、教祖は好んでこれを生けた。切り口など手を加えずそのままで生けても、三日や五日は十分にもつ。竹は一週間以上、紅葉は二週間くらいもつこともあった。

 教祖が生けた花村が長もちしたのは、短い時間のうちに素早く生けるのでいたまないという理由ばかりではない。花の命を生かしきった教祖の霊的な力もその大きな原因であったといえる。

 宝山荘時代のことだが、つぎのような話が伝えられている。
 昭和一五年(一九四〇年)六月、面会のため宝山荘へ来た高頭信正は、時間があったので控え室で待っていた。するとそこへ、花を生けるために教祖が姿を現わした。女子の奉仕者が白い牡丹を用意したが、その花は勢いがなく、ダラリとしていた。しかし、教祖はそれを一本一本、手桶から出して無造作に生け、終わってから片手をうしろにつき、上体をそらせて眺めていた。その時、ダラリと首をたれていた花が徐々に起き上がって行くのを高頭ははっきりと見た。その間一分くらいであったが、弱った花を、みるみるうちによみがえらせる霊力を目のあたりにして、思わず身体が硬直するほどの畏敬の念を覚えたのであった。

 昭和二六、七年(一九五一、二年)ごろには、教祖は三、四日ごとに花を生けることにしていた。そして、いつも朝食が済んで間もなく、箱根だと観山亭の一室がそれにあてられていたので、担当者が薄縁(縁をつけて整えたござ)を敷き、花器をそろえ、信者から届けられた花材を準備する。花村はしかし、それだけではなく、庭に咲いているものも取ってきて使ったりした。

 教祖は鋏を手に庭に降り、狙いをつけてさっと切る。切った枝はすぐ、奉仕者の携える手桶に入れる。それはできるだけ空気にさらさないためである。こうして一通り、欲しい花材を集め終わると、教祖は一気に生け込みを始める。生け終わると、「これは和室へ」、「これは洋間へ」というように、置く場所を奉仕者に指示するのである。その時の教祖の顔は、いつも心底から楽しげであった。

 特別な時には、箱根美術館の三階の和室や、日光殿の床の間の花も、教祖みずから生けたが、この時はその場所へ出向いて生けるのである。

 ある時、教祖は竹庭の一隅に、おりしも数輪の花をつけていた山百合一本を切った。それをそのまま肩にかつぐようにして美術館の三階へ上がり、備え付けの蕎麦青<*>の花瓶にスッと入れ、二、三枚葉を取っただけで生け上げたのである。しかし、この一見無造作に生けられた花は、床の間にみごとに調和して、部屋全体になんともいえないすがすがしい雰囲気を醸し出したのであった。

 *蕎麦手の釉薬を用いた磁器。中国明、清時代のもの。黄味がかった濃緑色をしている

 またある時、箱根の山に自生する朴の木の、白い大きな花がいくつかついた大技を、教祖が日ごろ好んだ板谷波山作の白磁<*>の大花瓶を使って、日光殿の床の間に生けたことがあった。朴の枝は一方で、床近くを広々とはいながら、しかも一方では、天に向かって伸び伸びと生けられた。まことに大らかな、堂々たる作品であった。たまたま参拝に来てこの大作を見た堀内照子は、

 「雄大な構成のうちに込められた、冒し難い気品と尊厳さに打たれて、思わず息をのんだことでした。その後、くじけそうになったりした時など、この朴の木の生け花が、どんなに私を励ましてくれたことでしょう。」
と、その時の感激を語っている。
 
 *白色の磁器

 また、昭和二五年(一九五〇年)秋の大祭に演芸を奉納して以来、教祖と親交を重ねた四代目・市川猿之は、教祖の生け花についてつぎのように述べている。

 「私が明主様にお会いして、一番最初にピンと来たのは、そのお部屋の花でした。お招きを受けてうかがうと、いつもご自分で生けられたお花が床にありましたが、そのお花は何か普通のと違うのです。花のたたずまいは円満でありながら、一種特別なものを感じさせるんです。達人だと思いました。

 明主様は超越した方ですから、何か、そういうものから出ているものがあるのでしょうが、偉いものだと思いました。」