俳優

 教祖は若い時から、映画だけではなく、いろいろな興行物を幅広く楽しんだ。後年さまざまな分野の名人について、その思い出を書き記している。

 歌舞伎俳優の中で、教祖が最大級の賛辞を贈ったのは九代目・市川団十郎であるが、その芸について、

 「舞台に現はれた場合実に動かない。よく彼の芸を評して腹芸師といふが全くそうである。殆んど動きがなく芸らしい芸をやらない。それでゐて観客を魅了する事百パーセントといふのであるから彼は全く名人である。」

と述べている。なかでも、「酒井の太鼓」という出し物で、「酒井左衛門尉」という役柄を演じた時のことを例にとって、

 「彼は舞台の真正面に唯一人端座瞑目し、やや下を向いて些かの動きも見せない。故に最後に到っては家来の注進もなく、彼一人生ける人間と思えざる迄に静まりかへって凡そ四、五分に及んだであらう。その不動の沈黙者を観客は固唾を呑んで観てゐる。左衛門尉が如何なる事を為すやと次の行動を憶測なしつつ魅了されてしまったのである。その時私はつくづく思った。歌舞伎の如き大きな舞台の真只中に一個の俳優が端座し、一頻一笑の動きもなく一言の声も発せずして、かくも観客を魅了するといふ事は、全く技芸の極致である。」

と賞賛している。そして、団十郎が俗受けを嫌い、観客が拍手喝采する場面があると、翌日演じ方を変えてしまうという逸話に、

 「察するに彼の演技の目標は大衆ではなく、一人の識者にあるのであらう。」

と、その芸の境地の高さを認めている。

 教祖はまた新劇の女優、松井須磨子を名人の一人にあげ、彼女の演じたイプセン作「人形の家」のノラの役や、メリメ作「カルメン」のカルメン役の演技を見て非常に感動をしたと述べている。松井は、演劇上の師と仰いだ島村抱月が大正七年(一九一八年)に病死すると、翌八年(一九一九年)、そのあとを追って自殺した。教祖は、たまたま、その二日前に彼女の舞台を見ており、

 「死の二日前の舞台に立って些かの破綻も見せなかった彼女は、俳優としての心掛によるものと感心したのである。」

と述べて、三四歳の若さで逝ったこの名女優の死を悼んでいる。