取次者として大切なことは、御用に徹<てつ>すると同時に、内面的修業<ないめんてきしゆぎよう>がはかられなければなりません。取次者となりますと、その取次ぎの如何により、人が救われるか救われないかというわけで、人の師表に立つものは、他に甚大<じんだい>な影響を与えるのでありますから、つねにわれの心と行ないを省みまして、過<あやま>ちのなきよう、正しいお光が与えられるようにと、人格を練り鍛えまして、巾<はば>の広い教養<きようよう>を身につけてほしいと思います。
教養といっても、けっして学問的知識をうるということばかりではありません。余暇<よか>を利用しまして、たとえば、良書を読むなり、また、お茶の一つも点<た>てるなり、書を習うなりして、人格の陶冶<とうや>に役立てていくことが必要ではないかと思います。
明主様もよく、暇を見つけては花を活けたり、茶席にも出られたものでした。そのお花も全然岡田流、自己流<じこりゆう>でやられましたが、京橋時代、遠州流<えんしゆうりゆう>の先生が、月に何度か見えまして、床<とこ>の間には必ず花を活けていかれました。それを眺<なが>めては、いいとかわるいとか言っておられました。手をとっては学ばれませんでしたが、その間にちゃんと学んでおられ、基本は心得ておられたわけです。また、美術のことでも、暇があれば博物館<はくぶつかん>に出かけていかれたり、三越へいかれても美術部へいって、まず、美術品をごらんになる、というふうにして学んでおられたのです。そういうことが、やはり教養だろうと思います。