神様も信仰初期のうちは赤<あか>ん坊<ぼう>だと思って、なんでも聞いてくださり、おかげはくださいます。しかし、人間はいつまでも赤ん坊でいられませんように、だんだん向上していかねばなりません。
最初の“頼<たの>みます。お願いします”のおかげ信心<しんじん>から出発して、神様のありがたさがわかったなら、こんどは、神様のお心がわかってまいります。そして、人間はなんのために生まれてきたかを知り、神様のお手伝いをしなければならない、という境地<きようち>になってくるのであります。さらに進みますと、神様の悲<かな>しみは自分の悲しみ、神様の喜びを自分の喜びとすることによって、ほんとうに信仰が完成<かんせい>されるわけでありますが、信仰はここまでいかなければならないのであります。もちろん、ただ一歩々々体験によって育<そだ>っていくもので、いっぺんにその境地にはいけないのであります。
それで、いつまでも、“頼みます。拝<おが>みます”の境地であっては困るのであります。これはおかげのいただきっぱなしで、何も報<むく>いることがありません。このことを教え、信者の信仰向上を計ってやるのが、お世話するものの何よりのつとめであります。それをしなかったならば、再び浄化をいただいたとき、おかげを落としてしまいます。そういうことのないよう、ほんとうの信仰が確立<かくりつ>するまで、面倒<めんどう>をみていってあげなければならないのです。
ですから、浄霊をいただいておかげをいただかれた方は、地上天国を造るなんらかの手伝いをしていくというところまで、お導きしなければならないわけであります。